硬直1000F

3日でやめます

セブンスヘブン・リ・アゲイン

 

 

 このブログを始めてから、半年が過ぎたらしい。かなり早い。といってもブログ関係なく、大人になってからの時間の進み方は(思い返すと)非常に早いと感じる。私が高校生の頃に会ったどこかのオッサン(地元のお祭りで急に話しかけられたのでシンプルに警戒した)いわく、「大人になったら1年あっという間だぞ。小学生が自転車くれぇの早さだとしたら、中学生は原付、高校生は車、大人になったらツインターボだ!今のうちに遊んどけよ!」とのことだった。当時は意味不明だったし、ツインターボって何だよ、初期設定を自転車にしちゃうから後半そうなるんだよと蔑んでいたが、今自分が大人になってみるとその言葉の意味はよく分かるし、ツインターボって何だよ、初期設定を自転車にしちゃうから後半そうなるんだよとは相変わらず思っている。

 

 

 

 半年というひとつの区切りでもあるので、初めての記事に寄せたものを書こうと思う。ツイッターの方では天津飯のことを書くとか言ったが、あれは嘘。優しい嘘。だって本当のことを言ったらあなた、許してくれちゃうでしょう?違うの。それじゃ私達、前には進めないのよ。そう言って彼女は、2本目のアメリカン・スピリットに火をつけた。マディ・ウォーターズのレコードがその煙をかきまぜて、夜をいっそう黒く染めた。そういうことです。

 

 

 

 

 

 

 

 あれから半年が過ぎたが、私の住まいの最寄りコンビニは相変わらずセブンイレブンだ。ほどよく田舎なだけあって、駐車場がめちゃくちゃに広い。ヴィシュヌ神(世界を3歩で踏破できるらしい)の愛車のキャデラックがとめれるくらい広い。へぇ。ヴィシュヌってアメ車好きだったんだ。

 

 そのセブンで、いつからか「ひとくちもっち(チーズ)」なるものが売られるようになった。

  

 

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 おいしい。味も濃すぎないし、微妙になんか食べたいときとかにちょうど良い。是非買ってみてください。

 

 

 

 さて本題なのだが、この画像の左のシールに注目してほしい。

 

 

チーズ

朝食にも最適

 

 

 お分かりいただけただろうか。このシール、この短い文章の中に数多くの不穏な要素をはらんでいる清純派AV女優。今回はこの文言についてどのような側面から考えるのがいいか検証しながら、シールに込められたセブンイレブンの思惑を紐解いていきたい。

 

 

 

 

 

① このシーンで食べるのがいちばんいいよ説

 

 まず注目したいのは、「朝食にも最適」の部分である。この商品、たしかに朝食べるにはちょうどいい。そういった意味では、問題はないようにも見える。

 

 しかし、ここに書かれているのは、「朝食に最適」ではない。「朝食にも最適」だ。にも、なのだ。

 

 「朝食にも最適」という文面、裏を返せば、「朝食以外にも最適なシーンが存在する」ということだ。「基本的には昼食に最適だが、朝食にも最適だよ」などという場合でなければ、にもという助詞を使うはずがない。他にも最適なシーンがあるのだ。それは家族団欒の夕食かもしれないし、新発売のゲームをやり続けながらの夜食かもしれないし、頬を刺す朝の山手通りでひとくちもっち(チーズ)の空き袋を捨てるのかもしれない(結果朝食ですねこれ)。

 

 そう考えると、「最適」という属性に疑問が生じ始める。「朝食にも適す」という表記ならいい。「昼食にこそ最適だが、朝食にも適す」なら許容できる。しかし最適とは最も適していることであり、「昼食にも最適だが朝食にも最適」というのはありえない。これを主張する時点で、ひとくちもっち(チーズ)のロジックは瓦解してしまう。我々はいったい、どのシーンでこれを食べればいいのかわからなくなり、発狂し、独房の中でドグラ・マグラたる余生を送ることになるだろう。私はなりかけた。がなんとか踏みとどまった。すぐに自宅に帰って部屋を暗くして心を無にしたから。ありがとう催眠淫語音声

 

 このような矛盾は、この「最適」という文言を、「この商品はどのシーンに最適か」を意味するものとして捉えた場合に生ずる。それならば、「最適」の解釈を変えれば解決するかもしれない。次項は少し見方を変えてみよう。

 

 

 

② 朝食として最適だよ説

 

 「この商品が最適なケースは朝食」という視点では矛盾が起きた。ならば、「朝食に最適なのはこの商品」という視点ではどうか。あらゆる食品の中で、朝食に最も適しているのはひとくちもっち(チーズ)だと宣言しているわけである。

 

 しかも忘れてならないのは、「にも」の存在である。これがあるということは少なくとも朝食以外にもう1つ、最適となるべき食があるということだ。これを仮に昼食とした場合、ひとくちもっち(チーズ)は「朝食界の王であり、昼食界の王でもある」ということになる。

 

 これは非常に大それた話である。しかし、大風呂敷を広げてはいるものの、論理的破綻は見られない。自称するだけならキビシいだけで矛盾ではないのだ。あくまで自称なら、自分がキリトに似てるとか、彼女がアスナに似てる(聞いてないw)とか言っても矛盾ではないのだ。キビシいけど。

 

 

 

 ただし、このことに関して2つの問題が新たに発現する。

 

 1つ目、朝食にひとくちもっち(チーズ)が最適であると断言するのは、他のすべての商品はこれに劣っていると断言しているのと同義である、ということだ。おにぎりも他のパンもハッシュドポテトも、ひとくちもっち(チーズ)に比べれば全て格下。ゴミゴミアンドゴミ。そういうことになってしまう。しかも朝食だけに限らず、他のあらゆる食シーンでも同様のことが起こりうるため、間接的にセブンイレブンの全ての食品はひとくちもっち(チーズ)に劣る存在であるということになる。すごい。シリアルキラー。覇権食品ひとくちもっちに震えろ

 

 2つ目は、現在セブンイレブンで行われている”朝セブン”なるサービス(コーヒーと対象のパンを一緒に買うと値引きされる)の対象商品に、このひとくちもっち(チーズ)は入っていないことだ。最適なのに。なぜなのか。やっぱり自称してるだけでそこまでの実力はないのか。それとも強すぎるからザコの争いには参加しないのか。範馬勇次郎なのか

 

 

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※右の方が範馬勇次郎さんです

 

 

 

③ 「朝食にも最適」という概念を内包してるよ説

 

 セブンイレブンの他の商品を見渡してみても、こんなシールのついた商品は存在しない。シールが貼られている商品自体は存在するが、それらはすべて内容物を表示しているのみの役割である。パンに限れば、「コロッケ」とか「タルタルフィッシュ」とか「チョコ」とか書いてあるだけだ。

 

 ということは逆に、このシールもただの含有物の表示なのではないか?つまりひとくちもっち(チーズ)には、チーズと朝食にも最適が入っているよ、という表示だということだ。

 

 なーんだ、ただの概念の内包ってことね。これなら納得がいく。

 

 

 

 

 

 いくわけねーだろ。なんだ「朝食にも最適が入ってるよ」って。構造が複雑すぎて理解できんわ。新宿駅の平面図か。

 

 

 

④ チーズは朝食にも最適だよ説

 

 そもそもこのシールには「チーズ」と「朝食にも最適」が書いてあるため、ひとくちもっち(チーズ)は関係なく、「チーズは朝食にも最適だ」という主張が書かれている、という観点だ。

 

 ・・・いや知らん知らん。ここでそれを言われても。知らん。知らんとしか言えない。

 

 しかも実はこの商品には前身となる商品が存在し(その名もプチチーズもっち(もっち部分にこだわりがあるらしい))、そこに貼られたシールには「チーズ」の表記はないことからも、この説の裏付けはかなり脆弱だと考えられる。

 

 

 

⑤ 実はチーズは「はい、チーズ!」のチーズのことで、写真をとるときの新たなかけ声として「はい、朝食にも最適!」を提案してるよ説

 

 んなワケねえだろカス。言いづらすぎるわ。意味が破綻していて怖い言葉をかけ声にするな。範馬勇次郎

 

 

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※「邪ッ」という斬新なかけ声

 

 

 

⑥ よくよく見ると縦読みになってるよ説

 

 もうやめていいですか

 

 

 

 

 

 

 

 大いなる矛盾と人の業(カルマ)を内包した悪魔の果実、ひとくちもっち(チーズ)。みなさんも是非一度朝食に召し上がってみては。私は普通にフルグラ食べます。

 

映画館 vs Amazon Prime、映画館の負け

 

 

 「コマンドー」だけは絶対に吹き替え版を見るべきだと思う。もう金曜ロードショーなんかでも擦り倒されているので、ほとんどの方は見たことがあるのではないだろうか?実際、映画をほとんど見ない私でも5回以上は見ている。まだという方は是非見てほしい。昨今の表現でいう”パワーワード”が非常に多く、見ていて飽きが来ない。主人公に銃を捨てろと言われて本当に銃を捨てるベネット(敵キャラ)がいちばん好きだ(巷では「筋肉催眠」と言われているらしい。だいぶ面白い)。ちなみにストーリーはよく覚えていない。

 

 

 

 

 

 みなさんは、AmazonPrimeを利用しているだろうか。送料が無料になったり、お急ぎ便が使えたりというAmazonの有料会員サービスだ。そしてこのPrimeのみのサービスのひとつとして、アマゾンプライムビデオというものがある。

 

 アマゾンプライムビデオは、簡単に言うとオンデマンドの映画・映像販売サイト(アマゾンビデオ)から、いくつかの作品(といってもかなりの量)を自由に観賞できるというサービスだ。他にもHulu、Netflixなど、似たようなサービスも存在する。今回は表題にアマゾンプライムとつけたが、これらの定額制映像配信サービス全体についての考察である。でも定額制映像配信サービスっていちいち言うのめんどくさいしタイトルの引きが弱いからアマゾンプライムで統一していこうと思います。あしからず。

 

 

 

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 さて、表題の件である。私は映画館にはほとんど行かない(このあいだ久しぶりに行った(Free!!の劇場版が見たかったから)ら、シンプルに目的地を勘違いして遅刻した)のだが、そういう個人的な趣味嗜好を除いても、映画館はアマゾンプライムに勝てないと思っている。

 

 

 

 先に擁護しておくが、映画館を貶めようなどという気はまったくない。もちろん映画館にもアドバンテージはある。例えば、最新の映画が見られることであったり、臨場感があるという主張もまあわかる。実際4DXとかすごいらしい。(ところで4DまではわかるけどXって何?どんなワードでググっても出てこないし、「4D X 映像」とかで調べてたらいつのまにかXvideosにたどり着いてしまってあえなく1試合してしまったんだがどうしてくれるわけ?)

 

 また、キャラメルポップコーンがハチャメチャにうまいというのも大きい。あれは家で食べるものとはわけが違う。家で食べられるのはせいぜいキャラメルコーンくらいなものだ。いやあれもうまいにはうまいが、やはりポップがあるとないとではだいぶ違う。ヴィレヴァンみたいなもんだな!ガハハ!うまい!(ヴィレッジヴァンガードビレバンって表記するのに抵抗あり(知らん))

 

 まあ映画館の利点としてはこのくらいだろう。まああとは、PCやスマホタブレットなどがなくても映画が見られるというところくらいだろうか。とはいえたぶん両方ないという人はこのブログを読んですらいないと思うのでここは無視しておく。

 

 

 

 整理しておくと、映画館は

 

○最新性

○映像体験

 

 という主に2点について、アマゾンプライムよりも優位に立っていると考えられる。

 

 

 

 

 

 では続いて、アマゾンプライムのアドバンテージ。これはわりと単純で、

 

○家や外出先で見られるという利便性

○種類が多いというコンテンツの充実度

 

 などが挙げられるだろう。

 

 しかし、ここで私が主張したいのはこのような目に見えるアドバンテージではない。先に述べた、映画館の映像体験のような部分についてである。端的に言えば、私はこのような”映像体験”という部分においても、アマゾンプライムのが勝っている、と考えている。

 

 

 

 

 

 言うまでもなく、臨場感や没入感は現状映画のが上だ。ちかごろはホームシアターという設備を持っている人もいるし、PCで見る映像にはVRという新要素もあるにはあれど、コンテンツ自体が充実していないし(たぶんアマプラにもない。ないですよね?)、なにより映画1本をVR機器で視聴するのは身体的にキツい。単純に目が疲れる。やはり20分のAVくらいがジャストだ。こういうところから言っても、やはり臨場感・没入感については映画館に軍配があがるだろう。

 

 

 

 では、アマゾンプライムが持っている映像体験上の優位性とは何か。それは、”巻き戻し機能”である。

 

 ・・・いやわかってるから大丈夫。そりゃね。DVDでもブルーレイでもそうやんけっていうのはわかってるから。後で説明するから。黙って聞いてて。人の話に割り込んでも許されるのはルフィと真島五朗だけだから。なんならあいつらも許されてはいないから。聞け。

 

 

 

 アマゾンプライムで映画を視聴する場合、自由に巻き戻しが可能だ。見過ごしてしまった場面や、もう一度聞きたいセリフを再度視聴することができる。それも何度でも。アマゾンプライムの再生ツールにはデフォルトで画面上に巻き戻し/早送りボタンが用意されていることからも、このような使い方が前提とされていることがわかるだろう(ちなみにDMMの月額動画見放題プランにもある。ありがとうDMM。でも月額CDレンタルのインターフェースはクソだから早くなんとかしてくださいおねがい)。これは当然だが、映画館では絶対に不可能な機能だ。

 

 

 

 ここで、ある論を紹介しておきたい。映画監督の吉田喜重氏は著書「小津安二郎の反映画」の中で、「映画とは独占的なメディアである」としている。かいつまんで説明すると、

 

 

人間の眼は、ある対象を見るとき、そのものを個別的に見ているのではなく、その周囲の世界を含めた連続的な総体を見ている。

                ↓

つまり人間の視線は、周囲を泳ぐ視線(剰余の視線)に支えられて成り立っている。

                ↓

絵画や写真を見るとき、人間は自由に視線を泳がせることができるため、眼は本来の活動ができる。

                ↓

しかし、映画は時間的制約があるため、”剰余の視線”が排除されてしまう。

 

 

 以上がその論旨だ。乱暴に言えば、絵や写真は見る側が自由なスタンスで見れるけど、映画は「これを見ろ」「目を離すな」と強制してくるメディアだ、ということだ。

 

 

 

 映画はもとより「目を離さない」ことを前提として作られている。とすれば映画を見ているときの我々は、ある意味で「(視線をどう動かすかという)選択を奪われた状態」にあるといえる。我々は映画を見るとき、選択の自由を奪われているわけだ。

 

 

 

 その点、アマゾンプライムならば、このような枷をつけられることがない。我々は自由に巻き戻しができ、何度でも1つのシーンを見返すことができる。さらに言えば、「巻き戻しが可能だ」という事実がそこにあるだけで、我々の視線には「見逃してもいいか」という余裕が生まれる。実際に巻き戻しをしなくても、この機能が存在しているというだけで、我々は映画の持つ強制力を回避することができるのだ。

 

 映画館での視聴には視線選択の自由がない。アマゾンプライムにはそれがある。まずはこれを覚えておいてほしい。

 

 

 

 

 

 さて、ここでもう1つ紹介しておきたいのが、”消費社会”という概念だ。先述した”選択の自由を認めない”というのは、消費社会である現代に顕著な傾向である。

 

 

 現代が消費社会だというのは、経済学者でなくとも周知の事実だ。しかし、この語の意味は、経済学における意味と一般的に浸透している認識とで大きくくいちがっている。消費社会とは、モノを買うことによって成り立っている社会、という単純なものではない。ボードリヤールによれば、”消費”とは観念や記号を受け取ることだという。

 

 

 

 インスタにスタバで撮ったなんちゃらフラペチーノの写真をあげている女子大生を想像してみてほしい。想像しましたか?吐き気がしますね。あなたならどうします?殺しますか?私?私は受け入れますよ。こいつらと違ってね。キミのその弱いところも全部、受け止めてアゲルからサ・・・・・(あとで誰かフォトショでキラキラした感じのエフェクトつけといてください)

 

 ここで考えてほしいのだが、果たしてこのフラペチーノは何のために購入されたものだろうか。

 

 ここでの購入の動機は、おいしいから飲みたい、という欲求によるものではない。当然、栄養補給のためでもない。「この店に行った」という事実の誇示である。つまりこの場合の女子大生が受け取っているのは、フラペチーノというモノそのものではなく、店に行った事実、という観念なのだ。

 

 消費という行動の恐ろしさはここにある。モノの受け取りには限度がある。我々が一度に食べられる量は限界があるし、一度に何着もの上着を着ることはできない。しかし、観念の受け取りには限度がない。この意味で、消費は身体的限界によってストップすることがない。

 

 このような消費という行動の性質を逆手に取って展開されているのが現代の経済だ。新型iPhoneを購入するときに多くの人々が受け取っているのは、「新型を持っている俺カッケー」という観念それ自体であろう。べつにそれがダメとかじゃない。ダメとかじゃない(ほんとはちょっとダメだと思っている)が、いま世界の経済はそういう方向に動いているということだ。

 

 この意味で、現代は「モノが足りない」社会であると言うこともできる。我々は一見不自由なく暮らしているようだが、実は我々は常に消費を求めている。なぜなら、観念の消費には限度がないからだ。新しいものを手に入れれば、より新しいものを求めるようになる。可愛いものを手に入れれば、より可愛いものを求めるようになる。

 

 そんなときに、我々が持つ選択の幅はあまりにも少ない。そのような欲求を満たすもの(観念)を供給するのは常に生産者側だからだ。言い方は悪いが、現代に生きる人々は、消費社会によって常に枯渇し、次なる消費物(生産者の都合によって決められた新製品)を求めるように仕立て上げられている。我々は消費社会によって、何を受け取るかの選択権を奪われてしまっているのだ。

 

 

 

 

 

 話を映画に戻そう。

 

 映画館とアマゾンプライムには、視線選択の自由の有無という違いがあったことを思い出してほしい。これは、消費社会の話題にも通ずると私は考えている。

 

 

 

 映画館での我々は、視線選択の自由を奪われている。つまり、その映像の受け取り方を制限されてしまっているのだ。これは、先ほどの消費社会の構造とまったく同じではないだろうか?

 

 映画は本来的にそういうメディアであるのだから当然だ、という主張ももちろん正当だ。しかし、それならばむしろ、制限されるのが本来の形であった映画という芸術に、さらに視線の自由化という要素を付け加えたアマゾンプライムは、映画という芸術の新たな形を提示したと言えるだろう。そしてこれは、選択権を封ずるというきわめて消費社会的なパースペクティヴから映画を解放したとも言えるのではないだろうか。

 

 

 

 一見非常に消費社会的に見えるアマゾンプライムというサービスは、もしかしたら映画を消費社会の棺桶から解放する、救世主的な試みなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 これで話は終わりなんですが、今読み返したらなんかDVDとの違いはあとで説明するとか言ってましたね。何書こうと思ったか忘れました。はは、メンゴメンゴ。まあ各自適当に考えといてください。じゃ私は忙しいんで。もう話しかけないでください。あ、女子大生の子はいいよ。DM待ってま~す(笑)

 

 

「光のお父さん」のようにはいかない

 

 

 考察が大半を占めるこのブログですが、今回は軽めの回想編です。次回書くことがちょっと難しくなりそうなので、その前にワンクッション置こうという読者に親切な流れでやっていこうと思います。すごいでしょ。読者思いのいいブログですね。RTよろしくな。

 

 

 

 

 

 私はオンラインゲームのFF14をプレイしているのだが、昨年このゲームをもとにしたテレビドラマが放映された。「光のお父さん」というフレーズが俄かに話題になったのでプレイしていない方でもご存知かもしれない。テレビドラマに興味はないのだが、プレーヤーとして一応観ておいた。普通に面白かった。お父さんを演じる大杉漣の演技が実に素晴らしい。夜汽車の男のときからあいつはやるやつだと思ってたよ俺は。

 

 さてこのテレビドラマ、FF14が題材ではあるものの、あくまでゲームは媒介であり、疎遠になっていた親子が絆を再確認するというリアリティが作品の基軸を成している。コミュニティの種類が増え、家庭への帰属が社会的絶対事項でなくなった現代、親子が疎遠になることは珍しいことではない。とくに、父親と息子という関係は、えてして会話もなくなりがちだ。

 

 

 

 かくいう私も、なんとなく中学生の時分あたりから、父親との会話が減っていった。それは、思春期の息子を持つ父親には絶対の宿命だったのかもしれない。今宵語られるのは、ある少年のピューバティーと、その父親の葛藤を描いた、親子の絆の物語―――

 

 

 

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 ―――思い返せば、叱られるのはきまって母親からだった。勉強しろと言われたことは一度もないが、他人に迷惑をかけるような行動に対して、母は厳しかった。おかげで不良とは表面上の付き合いで済ませられたし、相手の気持ちもそこそこ思いやれるようにはなったと思うのに、インターネットのせいでめちゃくちゃ性格が悪くなっちゃったんですけど、どうしてくれるわけ?

 

 父親にはほとんど叱られたことがないし、殴られたことも一度しかない。朝寝ぼけたままトイレで小をしたら照準が外れて思いきり便座にかかってしまったのを、後ろに立っていた父親(おそらく大をするため待っていたらしい)に見られたときがその一度だ。なんでだよ。もっと殴るべき場面あっただろ。普通に夏休みの宿題1個もやらずに登校してその日の夜先生から電話かかってきたときとかに殴れよ。と思った。

 

 

 

 そんなわけでうちの父親は、決して威厳があるほうではなく、いつもどこか抜けていて、良く言えば裏表のない、悪く言えば自己中心的な性格だった。

 

 私はだんだん、父親と話をすることに生産性を見いだせなくなり、しだいに疎遠になっていった。彼はビールを飲むとかなりのダル絡みをしてくるため、それも煩わしくて意図的に避けることも多々あった。中学生高校生の私はそんなままで成長を続け、大学に入って親元を離れるようになるまで、ずっとそんな様子であった。

 

 

 

 しかし大学に入り、家族と離れて暮らしてみると、その有り難みも痛感させられた。少し意地になっていたのかもしれない。父とは話す価値がないなんて、凝り固まった考えをしていたのかもしれない。やっぱりもう一度、父とは話してみるべきかもしれない。そう思った。

 

 

 

 少し話は変わるが、私は音楽が好きだ。主に聴くのは洋楽邦楽問わずロックミュージックで、初めて買ったCDはスピッツの「ロビンソン」というシングルだった。そして、スピッツを聴くようになったきっかけは、何を隠そう父親だった。

 

 私は父を避けてはいたが、この点については感謝していた。私の今の音楽的嗜好は、父親が与えてくれたものだ。父は知らないだろうが、私にとって音楽は、父との間のつながりを象徴するものだったのだ。

 

 

 

 大学を卒業し、地元に帰ってくると、家族の様子もいくぶん変わっていた。とくに父は、AKBなどのアイドル全般にハマっており、Youtube等で日夜動画を漁っている様子だった。

 

 私はいくらか引きはしたが、これはチャンスかもしれないと考えた。私はアイドル歌謡には明るくないものの、Perfumeだけは数枚アルバムを持っており、参加したフェスに出演していればステージに足を運ぶ程度には好きなユニットなのだ。(どっちかっていうと中田ヤスタカが好きというべきかもしれないが。)

 

 もしかしたらこのアイドルという切り口から、音楽の話で関係を修復し、一緒に酒を飲めるくらいの関係になれるのかもしれない。そこから私の趣味も広がれば、それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。

 

 私はそんな思いを込め、パソコンの前でももクロの動画を見る父に、意を決して話しかけた。

 

 

 

「へー、父さんアイドル好きだったっけ?」

 

 

 

「ん?おお・・・・・・まあな。数年前からちょっとな。」

 

 

 

「そうなんだ。・・・・・・あのさ、僕も好きなアイドルいるんだよね。Perfumeっていうんだけど。」

 

 

 

 よし。我ながらなかなか自然な会話になった。アイドル好きなら、ここから誰が好きとかそういう話になるはず。そしてあの頃のように、もう一度あの頃のように笑って話せる二人に戻ろう。ねえ、父さん―――

 

 

 

 

 

 

 

 

Perfumeあんなん何がいいのかまったくわからん。

 

 

 

 

 

 ダメだった。修復どころか批判された。私はシンプルに殺意が芽生えた。あのときの私なら、もしかしたら斬空波動拳の1発や2発撃てたかもしれない。

 

 

 

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斬空波動拳。殺意がいっぱいあれば撃てるらしい。

 

 

 

 それ以来私は父親と絶対に音楽の話をしないと誓った。アイドル動画を漁る様も、普通に白い目で見るだけで、もう口出ししないことにした。

 

 

 

 

 

 このあと弟(父に似て自分勝手・ハーフタレントばりに人の領域に土足で踏み込む)が「たかみな(父の推しメン)のどこがいいの?ブスやん。」とか聞いててやめとけと思ったし、父親の「なんていうか、俺と似たところがあるんだよな。」っていう回答にもまじで戦慄しました。みんな、ご両親は大切にな。ばいばい。