硬直1000F

3日でやめます

TSUTAYAに行けない。

 

 

 ロック音楽が好きで、よく聴いている。お気に入りのバンドはもちろんいるのだが、見識は広げたいし、時代に取り残されたくないので(あと邦ロック好きの若い子とワンチャンあるかもしれない(今のところその気配はまったくない)ので)、聴いたことのないバンドは積極的に聴くようにしている。

 

 昨今はYoutubeであれもこれも聴ける時代だ。そのバンドの代表曲ならYoutubeを見ていればほぼ網羅できる。しかし、やはりバンドの真骨頂はやはりアルバムにこそ存する。(言うまでもなく、真の真骨頂はライブだが。)だからやっぱり、気になるバンドがいたらアルバムで聴きたい。アルバムを聴けばそのバンドのカラーが、振れ幅が、実力がわかる。

 

 

 

 しかし、アルバムは根が張るのも事実。いやまあ、私ももはや而立を迎えた社会人、全く金がないというわけでもないものの、それでも3000円には少し躊躇する。これが輸入盤なら1500円、まあ買っちゃおうかなという気分にもなるが、日本のミュージシャンはアルバムが高すぎる。どうなってるのこの島は?とはどれみふぁドーナツの面々の言であるが、そういった心境になるのも無理はない。不思議だ。いったい何ラックのせいなんだ?

 

 今の時代SpotifyAmazonミュージックみたいなミュージッククラウドサービスもあって、まあ便利は便利なのだが、やはりiTunesに入れて持ち運びたいという思いがある。また聴きたくなったときにいつでも聴ける、データ容量を気にせず聴けるというのは大きい。

 

 そこで有用なのがCDのレンタルサービスだ。前時代的にも思えるが、やはりそこには一定の需要がある。レンタルだけなら1枚100円や150円、アルバムの購入と比べると投資の差は自明である。「このバンド、ハズレだったなあ~・・・」で受けるダメージも少ない。(ちなみにAVを購入した場合、ハズレであってもマナーとして一回は抜くようにしている。)

 

 

 

 そんなこんなで、しばしばレンタルショップを利用することがあった。あったと過去形にしたのは、ここ1年ほど、久しく利用していないからだ。

 

 現在の自宅から職場までの経路にあるレンタルショップは1軒だけ。そしてそれがTSUTAYAだ。前置きが長くなったが、表題の件について述べたいと思う。私は、TSUTAYAに行けない

 

 

 

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 TSUTAYAのシステムは、Tポイントカードを発行してもらい、それを会員証的に利用してレンタルを行うというものだ。このカードは現在、かなり提携先が多く、さまざまな店舗でポイントが貯まる仕組みになっている。複数の業種で横断的に使えるポイントカードの中では、最も市民権を得ていると言っても過言ではないだろう。

 

 しかし、私は未だこのTポイントカードを持っていない。持っていないのだ。

 

 

 

 私の体感では、かなりの人数がこのTポイントカードを持っている。え?こんなに?っていうくらい持ってる。恐らく平成15年くらいから、中学校の卒業記念品はTポイントカードになったんじゃないか。そのくらい持ってる。しかし、私は持っていない。

 

 天気予報を見ずに飛び出した朝、駅に着くと同時に雨が降り始め、見るとほとんどの人が傘を持ってきている。「うわあ、みんな(傘)持ってるなあ。」の感覚に近い。自分が世間に取り残されてしまった浮遊感。その中で覚える、自分一人が切り離されてしまったという劣等感。隙間風にも消え去るものの如く、という詩は、中原中也だったか。あれも恐らくTポイントカードについてうたったに違いない。”持たざる者(ザ・プア)”にとって、とかくこの世は生きづらい。

 

 

 

 “持つ者(オーナー)”たちの社会は、排他的な村社会に見えてくる。そこでは、Tポイントカードが村人の証左となる。村人は有するポイントによって序列が決まり、最もポイントの多い者が村長(むらおさ)として君臨する。そして、その年最もポイントの低かった家の娘は生贄として蔦神(つたがみ)に差し出されるのだ(TSUTAYAだから適当に名付けたんですけどこれ完全に触手ものの抜きゲーにありがちな触手タイプのやつですね)。

 

 そんな村社会に属する彼らにとって、我々は排除の対象でしかない。しかも、その構成員は流動的であると同時に、不可逆的でもある。昨日までの友人が、いきなり”向こう側”に行ってしまうことだってあり得る。それなのに、こちら側に戻ってくることはできないのだ。行きはよいよい、帰りはこわい。童謡の多くは怖ろしい風習についての意味が含有されているらしいが、まさにこのTポイントカードにもあてはまる。

 

 

 

 

 

 持っていないなら作ればいいじゃん。と人は簡単に言う。しかし、それもできない理由がある。今更すぎるのだ。

 

 

 

 Tポイントカードを新たに作るとする。そのとき我々が考えることは何か。「ああ、初めから作っておけば、いまごろどれだけポイントが貯まっていただろう・・・」だ。これから貯まるポイントに胸を躍らせるのではない。過去に貯まるはずだったポイントに思いを馳せるのだ。

 

 人間は、たとえコストを回収できないとわかっても、一度始めたプロジェクトを途中で断念することは非常に難しいのだという(コンコルドの誤謬と呼ばれる)。Tポイントカードで貯まるはずだったポイントは、いわばマイナス分のコストだ。このコストは、今後絶対に回収できない。しかし、Tポイントカードを作らない限り、このマイナスコストは自覚されることがないのだ。Tポイントカードを作ってしまった時点で、同時にこのマイナス分のコストが我々のもとに現前することになる。

 

 誰だって注射はいやだ。それは、痛いことがわかっているからだ。その痛みは予定通りに、しかし不条理に、我々にダメージを与える。ではTポイントカードは?作ってしまった瞬間に、あまりにも膨大なマイナス分のコストが降りかかることがわかっている。ダメージを受けることがわかりきっているところへ、進んで踏み入れることができるものは、果敢な勇者か、無知な愚者である。私はそのどちらにもなれない。自分の身にふりかかる後悔に堪えられるほどの勇者でもなければ、過去を顧みずに行動する愚者でもない。

 

 

 

 では、私に残された道は?ひとつだけだ。”持たざる者(ザ・プア)”として一生を終えること。そして、そんな私の苦悩に見向きもせず、今日も愚者たちはTポイントカードを作るのだ。

 

 おお、偉大なる杉の神(スギ薬局のこと)よ!我は貴公にのみ忠誠を誓う(スギ薬局のポイントカードだけはずっと前から持っている)!貴公より賜りし「時紡ぎの原盤(デジタル目覚まし時計(ポイントで交換した))」をもって、かの者たちを滅せん!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・・・とか思ってたんですが、ついに昨日Tポイントカード作りました。TSUTAYA最高!それでは。

 

今こそ政治家はVtuberになるべき

 

 バーチャルユーチューバー(以下、Vtuber)が隆盛を誇っている。かく言う私も電脳少女シロやら、輝夜月やら、ミソシタ氏やらをチャンネル登録している状況だ。めちゃくちゃ面白いというわけではないのだが、そこはかとない親近感や可愛らしさによる中毒性(ミソシタはトラックがかっこいい)があり、見ていて飽きない。なんでも、今やVtuberのチャンネル数は1000近くにまで及ぶらしい。多っ。仏の数くらいいるな。(仏はもっといる。)今回はこのように流行しているものを論じることで人気に乗っかってPV数を稼ごうという魂胆です。

 

 

 

 

 

 いきなり少し話が逸れるが、Vtuber(というかキズナアイ)が生まれる前から、似たようなことを行っているミュージシャンがいた。今やイギリスを代表する大物バンドとなった、Gorillazゴリラズだ。

 

 Gorillazはいわゆる覆面音楽プロジェクトで、ブラーというバンドのボーカル、デーモンアルバーンが中心となって結成されたグループだ(ちなみにギターは日本人の女性)。このグループは演奏者のビジュアルを表に出さず、MVやライブでのビジュアルは全てアニメキャラが演奏するという形式になっている。

 

 

 

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Gorillazのビジュアル。曲もめちゃくちゃいいので興味ある方は是非聴いてみてほしい。

 

 

 このGorillazの存在とその”中の人”を知ったときに私が得た印象は、「これ、”強くてニューゲーム”じゃん」だった。

 

 “強くてニューゲーム”とは、RPGなんかの作品で散見できる、クリア時のステータスを引き継いでもう一度最初からシナリオを開始できるというシステムだ。このシステムの醍醐味は、なんといっても爽快さにある。初回のプレイで苦戦した敵を、ばったばったと薙ぎ倒していく快感。もちろん、閾値を超えると戦闘自体が単調に思えてきてしまったり、ということもあるにはあるのだが。

 

 ブラーという90年代の超有名バンド(日本ではあんまり知られてないけど)のフロントマンが、現代的な音楽を追究するというプロジェクト。売れないわけがない。しかしその折には、デーモンアルバーンという人間ではなく、2Dというキャラクターとして生まれ直しているわけである。まさにこれは”強くてニューゲーム”に該当するだろう。こんなものは日本人でいえば小学生に混じって桑田佳祐にピアニカ演奏させるようなもの(そうなのか?)で、できて当然(ほんとうか?)だし、評定はもちろん5段階のうち5になるにちがいない(この例え大丈夫か?)し、市内のピアニカコンクールでも金賞を取ってくる(ピアニカコンクールって何?)に決まっている。

 

 

 

 

 

 Vtuberの話に戻そう。私はVtuberもGorillazと同じように、”強くてニューゲーム”的な思想をはらんでいると考えている。生身の人間に二次元のキャラクターを当てはめることで、生まれ直しを図っているわけだ。では、Gorillazの場合に「音楽的素養」「ミュージシャンとしてのネームバリュー」をステータスとして引き継いでいたのが、Vtuberではどんなステータスを引き継いでいるといえるのだろうか?

 

 先に私なりの結論を述べておこう。引き継いでいるステータスとは、「人間性」である。

 

 

 

 我々はみな、年数に違いこそあれど、それまでの人生でさまざまな経験を積んできている。当然彼/彼女なりの語り口とか、主義主張とか、性格の良し悪しと言うような、人間性を持っているわけだ。

 

 従来、他者が彼/彼女の人間性に触れるためには、何らかの関係を持たなければいけなかった。友人になったり、同僚になったり、出会いの形はさまざまだが、まずは物理的な接触がなければ、その人間性に対する触れあいはなされることがなく終わってしまう。そして、物理的外見(声や話し方なんかも含めて)的に受け入れられない存在ならばそこで人間性に対する触れあいはストップしてしまう、というのが現代以前のコミュニケーションだ。誰だってキモいオッサンとは長時間話したくないし、どんだけ面白くてもキモいオッサンの人間性なんて興味はないのだ。もうこれは人類普遍の真理だ。だからもうオッサンはグラビアアイドルのブログにクソみたいなコメントを書くのをやめろ。「食べてばっかりだと太っちゃうゾ☆」って何だ。最悪にもほどがある。タニタにでも履歴書送ってろ。送るな。

 

 ”外見”という枠組みをまず破壊したのはインターネットだった。インターネット上の我々は外見を持たない。そこでコミュニケーションをとる人間は、いきなりお互いの人間性を開示し合うことになる。だから、年齢や外見、立場にかかわることなく、お互いに本音でコミュニケーションがとれる。これが第一次的なコミュニケーションの革命だったというのは、各所で言われているとおりだ。

 

 しかし、それも今や(少なくとも日本では)ほぼ全人類的なものになってしまった。SNSは登録していない人のほうが少ないくらいだろうし、メディア媒体もウェブ上のものがかなり市民権を得ている。もはやインターネット上には人間性が氾濫してしまった。実社会の何倍もの人間性が蔓延するインターネットという暴風に、我々はさらされ続けている。

 

 

 

 このような状況の中で生まれたVtuberは、第二次革命に近い存在だと私は考えている。

 

 Vtuberの形にすることで、我々の人間性は擬似的な外見を得ることができる。人間は視覚的情報を非常に重視する動物だ。そのため、Vtuberという肩書きに加え、擬似的であれ美しい外見を持つことで、人間性が氾濫するインターネット社会の中であっても、視聴者の目をひくことができる

 

 このことは、ただの文章や小説よりも、漫画の形にしたときにツイッターで拡散されやすい、ということと同じだ。もうこんなテキストサイトは時代遅れなのだ。読むのに10分かかるこんな文章より、2秒で見られる絵のがバズるに決まっているのだ。神様どうか生まれ変わったら私を絵のうまい向井理にしてくれ。(ということを書きながらもしやと思って調べたが向井理は絵を描くのが苦手らしい。危なかった。向井理の絵が上手かったらそれはもう完全に私の才能が向井理”寄って”いることに他ならない。あんパンを2つに割ったら片方にはあんがギッシリ、もう片方はスカスカの空洞。その空洞のほうが私だ。私は残ったわずかばかりの才能も向井理に”返さ”ねばならず、向井理ファンに命を狙われ、向井理ファンの前で磔刑にかけられ、向井理ファンのロンギヌス(一番ガタイのいいブス)によって脇腹を貫かれるのだ。そして私は十字架に拘束されたままこう言うのだ。「私はそれでも、汝ら向井理ファンを愛そう」。――そのとき一人の向井理ファンが足を止めた。「姿形は違えど、この男は紛れもなく向井理の片割れ・・・ならば私は、向井理に対するそれと同じように、この男を愛そう」。となっていたに違いない。あれ?悪くないな。向井理ファンの女性のみなさん(ロンギヌス以外の方)、DM待ってますよ。)

 

 話が逸れたが、つまるところVtuberというのは、人間性”への到達を促進する(取るに足らなかったはずの個人に目を向けられるようになる)というシステムだと言える。批判を覚悟で言うが、シロの中の人と同じレベルで声が可愛い人間は何人もいるし、月ノ美兎の中の人と同じようなオタク女子は探せば他にもいるだろう。それら人間性にはさしたる差があるとは思えない。しかし、彼女らの人間性に価値を認め、注目させるためにVtuberという選択的仮構性を持たせたことこそが成功につながっているといえよう。

 

 

 

 さて、ここでひとつの説を唱えたい。上記のことを逆に考えると、「氾濫しすぎて個々には目が向けられないもの」をVtuberの形で打ち出せば、視聴者がその価値により到達しやすくなり、注目度が上がると考えることができる。現に今でも、歌を中心的なコンテンツにおくVtuberや、絵の描き方を指南してくれるVtuberが存在しているらしい。恐らくそのうちお料理Vtuberとか出てくるだろう。

 

 これらのものは、すでに世の中にあふれすぎていて、単なる音楽やイラストでは話題にならないのが現実だ。しかしそれがVtuberの形になることで、人々はその音楽やイラストにアクセスするための”動機付け”が得られる。多くの人に見てもらえる。

 

 

 

 それならば、Vtuberが発信するコンテンツの最果てはどこになるか。私は”政治”だと思っている。

 

 現代の政治は(とくに日本においては)混迷している。その上、若年層は政治に関心がない。かくいう私もない。まず興味を持つのが難しいのだ。そんなことを考えるのに心血を注ぐくらいなら、家でモリ・ゲームを見て嘘でしょとか言ってたほうがよっぽど楽しい。このへんは商業主義が政治分野と混同されてしまっていることが原因だと思われるが、長くなるのでここでは割愛する。でもモリ・ゲームは見ろ。

 

 与党政治家の打ち出す公約もはっきり言って似たり寄ったりだ。野党についてはもはや言及することもない。

 

 

 

 それならば、いっそのこと政治家をVtuberにしてしまったらどうだろう?政治家は旧来、必ずその風貌を表に出すことを義務づけられてきた。人間はどうしても外見で人を判断してしまう。しかし、その部分は政治能力とは本来無関係であり、切り離されて論じられるべき部分だ。ちょうど、不倫をしても有能な政治家が存在するように。

 

 また、Vtuberの形にすることで、先に述べたようにコンテンツへの到達が容易になる。具体的には、公約や政治家自身の人柄に触れてもらえるようになる。表現の自由を守る、とかそういう公約は、このような手法と相性がいいのではなかろうか。

 

 

 

 日本では未だに、「政治家は人間としても立派でなくてはならない」という、総合的人物判断をする考え方が支配的だ。Vtuber文化としては先進国だろうが、恐らく前述のような”バーチャルガバナー”は、日本以外の国からこそ生まれてくるのかもしれない。誰もがバーチャルな自己を持てるようになる、未来の話ではあろうが。

 

 そんな時代になったら、私もバーチャルの外見を手に入れ、第二の向井理として生きていこうと思います。ファンのみんな、よろしくな。ロンギヌスは帰れ。

 

 

道徳は、レジ袋によって試される

 

 

 

 人間は、生活水準を上げることは簡単にできるが、下げることは難しいらしい。原付を手に入れると、自転車だけの生活には戻れない。追いだき機能のある風呂に慣れてしまうと、その機能のない風呂では満足できない。一度VRのAVで抜いてしまうと、もう普通の画面で見るAVでは抜けない(そんなことはない。なぜなら「○○の凄テクに耐えたら~~」シリーズはVRにはないから(あれがVRになったらたとえ1本10000円でも絶対に買うのでDMMさんよろしくおねがいします)(できれば湊莉久))。

 

 

 

 そういった意味で、ある商品の値上げだったり、以前は無料だったものが有料になるというのは、初期の反発が必要以上に大きくなる。増税のときもそうだったし、最近ではゴミが排出量によって有料化するような地域もあるようだ。かくいう私も、Pixivの「人気順に検索」が有料化したときには面食らった。(名誉のために言っておくが、私はR-18作品だけを目的にPixivを利用しているわけではない。「どうせエロ画像ばっかり探してるんでしょ」と思われた諸氏は謝ってほしい。謝った上でお詫びとして、「仰け反り絶頂」のタグが入っている作品で一番いいやつのアドレスを教えてほしい。なるはやで。)

 

 

 

 

 

 さて、そんな有料化の流れの中で、かなり世間を賑わせたのが、レジ袋の有料化だ。最近ではスーパーでレジ袋を無償提供しているところはほとんどない。だいたい5円くらい払わされる。この風潮、いったいいつからだ?と思って軽く調べてみたら、だいたい2007年ごろから段階的に導入されていったらしい。

 

 

 

 そのような風潮とはうって変わって、コンビニ業界はかたくなにレジ袋を有料化しない。そりゃまあ有料化されたら困るのでこのままでいいのだが、一方では有料、一方では無料というのもいびつな状況だという気がする。

 

 「エコバッグを持参させる意識づけのため必要」とか「レジ袋くらい大したエコにならない」とか「あんなもんどうせスーパーが儲けたいだけ」とかそういう系の議論もいろいろあるだろうが、今回はもう少し別の切り口からこの問題を考えてみたい。

 

 

 

 

 

1. レジ袋の示唆する道徳性

 

 先日ファミリー〇ートに行ったら、そのレジ袋にこんなことが書かれていた。

 

 

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▲バーべーキューしてるときに独りで撮ってたので周囲の人が何?みたいな顔で見てたけど逆に怪しすぎて誰も話しかけてこなかった(バーベキューをBBQと表記するのに若干の抵抗あり(知らん))

 

 

 ここには、「レジ袋がご不要な方はお申しつけください」とある。え、今言われても。もうもらっちゃってるし。開いちゃってるし。しっかりファミ〇プレミアムのプリン(めちゃくちゃうまい)とか入れちゃってるし。そもそもプリン買ったのにスプーン入ってねえじゃねえか。創立30周年!じゃねえんだよ。4つのキャンパスはわかったからからスプーンをよこせスプーンを。

 

 この「レジ袋がご不要な方はお申しつけください」という文言、こういった意味では、初めてファミ〇でレジ袋をもらった人にとっては意味をなさない。これを目にするのは当然、レジ袋をもらった後のことだからだ。

 

 つまりこの文言は、”今後”について言及しているものだということがわかる。「次からは、レジ袋がいらなかったら断ってね」という伝達をしているわけである。しかもご丁寧に「資源を大切に」とか余計なことを言う変な鳥まで描かれているため、この袋は明らかに断ることを推奨しているといえる。

 

 

 

 日本に住む多くの人間は、ファリー〇ートで2回以上買い物をしたことがあるはずだ。それならば、特殊な場合(みんなの分も買い出ししているとか)を除き、ファミ〇のレジ袋を持っている時点で、その人は「レジ袋の受け取りを拒否しない環境破壊人間」というレッテルを貼られることになるのだ。

 

 まずこの段階で、我々は第一次的に道徳を試される。我々はレジ袋の記述によって、レジ袋を断ることを強いられるのだ。さもなくば環境破壊者とみなされ、その姿は忌み嫌われ、街を歩けば石を投げられ、絵描きに拾われて、彼が遺した最後の手紙を恋人に届けてアルファベットを1つ書き加えてもらうのだ。オーイェーンンーフーン、オオーーン

 

 

 

 

 

2. 道徳的価値と市場的価値

 

 イスラエルで行われた、遅刻にまつわるある社会実験がある。

 

socius101.com

 リンクを貼っておくので詳しくは見ておいてほしいのだが、簡潔に説明すると、

 

① 保育園の集団をA・Bグループに分ける

                                          ↓

② Aグループの保育園で、親がお迎えに遅れた場合の罰金を設定(300円くらい)

                                          ↓

③ Bグループと比較

                                          ↓

④ Aグループで再び罰金をなくす

                                          ↓

⑤ Bグループと比較

 

 

 という流れの実験だ。ちなみに、もちろん最初の保育園の集団で遅刻数に有意な差はなかった。

 

 

 

 結果はどうなったかというと、③の比較の段階で、Aグループの遅刻数は約2倍に増えた。つまり、罰金を科されることによって遅刻が増えたわけだ。そして⑤の段階、また罰金を科さなくなった状態でも、増えた遅刻数は変わらなかったという。

 

 これは非常に興味深い結果だ。

 

 この実験では、結果に対する分析も行われている。それによれば、罰金を科したことによって遅刻が増えた理由は、”道徳”のルールで制御されていたフィールドに、”市場”というルールを持ち込んでしまったからだという。「遅刻をしてはならない」という”道徳的”ルールに対して親は「こういうルールがあるんだから守らなきゃ・・・」という意識になる一方で、「遅刻をしたら罰金」という”市場的”ルールに対しては「罰金を払ったら遅刻してもいいんだ!」と考えてしまうわけだ。

 

 

 

 さて、件のレジ袋であるが、最初に述べたスーパーとファミ〇の比較をした場合、この現象と同様のことが起こっていると考えられる。

 

 「資源を大切にするため、レジ袋を断ろう!」は、”道徳的”ルールである。レジ袋は無料なのだから、断っても自分にメリットはない。しかし、「レジ袋を断ろう!欲しけりゃ5円払え」は、”市場的”ルールだ。だから、5円払えばレジ袋を受け取っても良いんだ、と読み替えることもできる。

 

 

 

 そういう意味では、エコバッグを持っていない人に対し、スーパーの体制のほうが優しいともいえるだろう。なぜなら、”逃げ道”があるからだ。レジ袋に代金を課すシステムには、「私は5円払っているんだからこのレジ袋を受け取る権利がありますよ」という免罪符が用意されている。

 

 これに対し、ファミ〇はレジ袋を受け取る派に厳しい。課金による逃げ道がなく、道徳的なルールによってレジ袋を断ることを要求してくる。このレジ袋を断らなかった者は、魔女裁判にかけられ、火刑に処され、死にゆく中ですべての人類を呪うのだ。ドリフターズジャンヌダルクだ。ワオ!とか言ってる場合じゃないぞナンジョルノ。

 

 

 

 

 

 我々はこのレジ袋に対する振る舞いを、もう一度考えなければならないのかもしれない。第二、第三のジャンヌダルクを生まないためにも。もうあのオルレアンの悲劇を繰り返してはならない。(そういう話だったか?)

 

 

 

 そしてもう一つ、市場経済的なものの見方も改めなければならないだろう。市場的価値のみによって利益を求めるのではなく、カネで解決できない道徳的な部分にこそ、次の世界のソリューションが埋まっているのかもしれない。みなさんもこのことを心に置いて、日々を過ごしてほしい。以上だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【回想シーン】

 

・・・なぜなら「○○の凄テクに耐えたら~~」シリーズはVRにはないから(あれがVRになったらたとえ1本10000円でも絶対に買うのでDMMさんよろしくおねがいします)(できれば湊莉久))・・・