硬直1000F

3日でやめます

化粧と校長と弱キャラの話

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 昔付き合っていた女性に「化粧うまいね」と言ってブチギレられたことがある。自分としては心から褒めるつもりで言ったのだが、後から思えばまあ確かにキレるわなといった感じだ。それ以来化粧の話題は(とくに女性に対しては)極力口にしないようにしている。しかし、今回は少しだけその禁忌を破って、化粧の話題から始めたい。

 

 

 

 どこかに出掛けようと思ったとき、仕度の時間はおよそ10分。急いでいたら5分。だから、最低でも出発する時間の5分前に起きればなんとかなる、というのが私の信条だ。実際ギリギリ5分前まで寝ていた場合でも、だいたい3割くらいは定刻に間に合っているのでその信憑性は高いことはおわかりだろう。とはいえ私が極端に早いというわけではなく、一般的な男性ならこのくらい普通なのではないだろうか?そうでもないですか?もしかして俺異端??wwwwwwwwwwww

 

 こんな生活をしていて実感するのは、女性の大変さだ。朝、30分も化粧のために時間をとられる生活。自分には到底真似できない。もちろん他にも大変さはいろいろあるだろうが、この一点について私はとくに女性に敬服している。(ドゥウィウィ~ン(女性好感度がアップする音)

 

 

 

 よく言われていることではあるが、化粧品は価格に対して原価が非常に安いことをご存じだろうか?原価率を計算すると、おおむね25%くらいが相場だと言われている(たとえば1000円の化粧品は、250円で作れる)。化粧品は本来的に、もっと安くてもいいはずなのである。そしてもう1つ、化粧品のマーケティングには特徴がある。それは、広告費が非常に高いことだ。

 

 この2つの事実から導かれるのは、化粧品は「ブランドイメージが重要な商材」であるということだ。ブランドイメージが重要だから、有名女優を起用し、広告にお金をかける。ブランドイメージが重要だから、もっと安くできるのに、あえて価格を下げない。むしろ、高くないと売れないのだ。確かに、たとえば本記事の冒頭に載せたファンデーションひとつとっても、相場は2000円くらいのようだが、それが600円とかで売っていたら、ちょっと怪しいなと思ってしまうのも頷ける。っていうか今ちょっと他も調べたけど化粧品まじで高いな。この値段を受け入れて買い足してる女性のみなさんには頭が上がりません。(ドゥウィウィ~ン)

 

 さて、ここまでにわかったのは、化粧品は「高いこと自体が価値」になるという事実であった。しかしこれは、必ずしも化粧品に限った話ではないように思う。時間が分かりさえすればよいのにやたら高いものがある、腕時計なんかも近い存在ではないだろうか。とはいえ安物の腕時計も一定の需要はあるので、さすがに化粧品ほど顕著ではないのかもしれない。いずれにしろ女性のみなさんには、これを踏まえて是非賢いコスメ選びをしていただきたい。(ドゥウィウィ~ン)

 

 

 

 話は変わるが、みなさんは学生時代の「校長の話」を覚えているだろうか。おそらく覚えていないだろう。そもそも真面目に聞いていた人がいるのかすら怪しい。ある統計によれば、校長の話を毎回きちんと真面目に聞いている生徒は、70億人に1人を下回るとのことだ。式典のたびに繰り出されるあの長い独演。そろそろ終わったか?と思ったら「え~そこでみなさんには、今から言う3つのことを大切にして・・・」などといってフリーザ初登場時レベルの絶望感出してくるやつを食らったこともあるだろう。

 

 私が思うに、この校長の話は、化粧品と同じ構造なのではないだろうか。つまり、校長の話は「長いこと自体が価値」と言ってしまってもいいのでは?短い話の方が(安い価格の方が)生徒は(消費者は)喜ぶに決まっているのだが、短い話では(安い価格では)校長としての格好がつかない(ブランドイメージが下がる)から、長い話(高い価格)にしてしまう。

 

 どうやら両者には、あえてマイナスな要素を排除しない(あわよくばプラスに転化させる)ことで、ブランドイメージを保っている、という点で共通する部分がありそうだ。

 

 思えば、学生のとき経験した部活なんかも同じ構造だったように思う。だいぶ時代も変わってきたが、それでも各種運動部には未だに「苦しいこと自体が価値」という考え方が通底的に残っている。日本の企業に蔓延する、サービス残業の考え方も同じかもしれない。「残っていること自体が価値」という考えを持っているお偉方は一定数いそうである。(お偉方、という表記はまるで悪意があるように取られるかもしれませんが、バチクソありますので問題ないです

 

 

 

 ここで、表題に残ったあと1つのワード、「弱キャラ」に注目してみたい。弱キャラとは一般的に、ゲームにおいて性能が低い(=勝利条件を達成しづらい)キャラクターを指す。格闘ゲームではもちろん、FPSやシューティングなんかでもよく使われる用語である。そして、とくに格闘ゲームの世界においては常日頃「弱キャラ使い」VS「強キャラ使い」の論争が繰り広げられていたりする。弱キャラ使いの自虐発言に対し、「弱キャラ使っておいて自虐するな」から始まる一連の流れだ。まったくご存じない方は一度ググってみてもいいかもしれない。ただ正直、どこまでいっても水かけ論だ。(そのキャラクターが好きだから、という理由だけで使っている、いわゆる「キャラ愛勢」については一旦保留しておきます。「弱キャラ使い」と「キャラ愛勢」はイコールではありません。ただし、「キャラ愛勢」だった人が「弱キャラ使い」として振る舞うことは多分にあると思います。)

 

 聡明な読者のみなさんはすでにお気づきかと思うが、私は「弱キャラを使う」ことについて、化粧品・校長の話と同じ構造があるのではないかと踏んでいる。つまり、「弱いこと自体が価値」になっている側面があるはずなのだ。勝利条件から遠い存在でありながら、弱いことを「価値」と認識することで、「弱キャラ」は「ブランド」になる。

 

 強キャラ使いにとって、弱いキャラを使うことには合理性がない。しかし、弱キャラ使いがそのキャラを使う理由は、決して合理性に収束しない。合理性を度外視してわざわざ高い化粧品を買うのと同じように、弱キャラには合理性を超えた「ブランド」がある。おそらく、この部分のコンセンサスがないから、上記の論争は水かけ論になってしまうのだ。

 

 ここまでを見返すと全体的に弱キャラ使いに対して批判的な文面になっていそうなので補足しておくと、私自身ははべつに強キャラ使いも弱キャラ使いも否定していない。ミクロな視点で言えば、ゲームの楽しみ方は決して一様ではないことがひとつの理由だ。合理性を追求するだけが楽しみ方ではない。それに、「このゲームはこう楽しむべきだ」と強要してくる人は最も不健康だ。その意味で言えば、私は「一定の楽しみ方を強要してくる者」についてのみ批判的である。楽しみ方は何者かに規定されるべきではない。また、マクロな視点で言えば、我々は「ブランド」を重要視する民族であることも理由のひとつだ。「ブランド」を信じることは決して盲目的なわけではない。むしろ、そちらのほうが合理的な選択であることもあり得る。

 

 お互い自分の意見を押しつけ合うことなく、寛容な気持ちでゲームをしたいものだ。まあ、不快なプレイスタイルになりがちなキャラを不快だと糾弾するのはべつにいいとは思うが。

 

 


 ここまでで、さまざまな事項の「ブランド化」について述べてきた。強調しておきたいのは、決して「ブランド品に欠陥がある」というわけではなく、あくまで「マイナス面をプラス面に変えるためにブランド化する」だけだということである。この行為は決して間違っているとは思わない。私は化粧品は高いからこそいいと思っているし、校長の話は長くて然るべきだとも思っている。サビ残だけはマジのガチで悪だから滅びろ

 

 

 

 ギリシア神話によると、人間は創世以来、いくつかの時代に分けられているらしい。いわく、「黄金の時代 → 銀の時代 → 青銅の時代 → 英雄の時代 → 鉄の時代」とのことで、まあざっくり言うとだんだん不幸になっていってるようだ。「英雄」だけテイストが違いすぎるのでたぶんタイプミスかなんかでこうなっちゃったんだと思う。

 

 我々が存する鉄の時代は、人が一生苦しみを背負って生きていかなくてはならない時代だという。しかし、もしかしたら我々は、この苦しみを「ブランド」によって「裏返す」方法を身につけた、新しい時代の人間なのかもしれない。

 

 そう、我々の生きる時代は、もう金属のように凝り固まった時代ではない。もっと柔軟な、みんなが伸び伸びと暮らせる時代。

 

 そんな願いを込めて、「ゴムの時代」と名付けたい。

 

 

 

 

 
 ・・・ということでね、女性のみなさん!

 

 

 

 


 ゴムの時代ということでね

 

 

 

 


 このゴムを使いまして

 

 

 

 


 セッ●スでもしますか!(ドゥウィウィ~ン)