硬直1000F

3日でやめます

カレーにジャガイモいります?

f:id:dr0ptheh8:20171017171212j:plain

 

 

 先に言っておく。いらない

 

 

 

 

 

 

 

 だいぶ間が空いての更新になってしまった。

 

 いやそう言いますけどね。このブログを更新するときのツイートには「暇だったら」っていう但し書きをしてるわけで、見てるのなんて無職か小学生くらいのもんだと思うんですが、私はきみらみたいにヒマじゃないんですよ。わかったらとっととハロワでも行ってママのミルクでも飲んでな!あ、いやちがうなこれ。ちょっと世界観設定がわからなくなりました。もう前置き終わっていいですか。お前らのせいだからな、ったく

 

 

 

 

 

 さて、表題について、いきなり物議を醸しそうな話題ではあるが、みなさんどう思われるだろうか。私は断然ないほうがいい。最悪10000歩くらい譲ってスープカレーになら入っていてもいいが、ライスと組み合わせるときに別の炭水化物(しかも米より格下)が入ってくるなんてのはラスベガスにパチンコ屋作るようなもので、まったく意味がわからない。

 

 適材適所という考え方をしてほしい。ジャガイモがもっと活きるフィールドがあるはずだ。フライドポテトはシンプルだがめちゃくちゃにうまいし、スパムと混ぜた上にチーズ乗せて焼いたやつなんて世界で一番うまいレベルだ。それなのになぜ・・・素材を殺していると私は思う。たぶんカレーに最初にジャガイモ入れた人がバルセロナの監督になったらメッシにキーパーさせちゃうんじゃないか。そのくらい殺している。

 

 

 

 ・・・という憤りを腹に抱えたまま生きてきたのだが、あるときその思いを増長されたCMがあった。商品名は忘れたが、赤井英和が出ていたことだけは覚えている。社員に借金させるブラック企業のCMじゃないよ

 

 

f:id:dr0ptheh8:20171017171739j:plain

 

 赤井英和扮する父とその息子が、自分のカレー皿に入っていたジャガイモの大きさで争い、最後に父がパクリとそれを平らげたあと、「お父さんのほうが大きかったも~ん」と大人げなく勝利宣言をして終わる。負けず嫌いな父と息子の、仲睦まじい様子を描いたCMだ。

 

 正直、CMの内容だけ見るとだいぶしょうもない。私がこの父の立場だったら素直に勝ちを譲ってあげるし、この息子の立場だったらブチギレて殴りかかると思うし、母親の立場だったら弁護士に電話してこの後の親権の相談をすると思う。でも息子も母もそうしてないってことはたぶんDV食らってるんだろうな。元ボクサーだし。ボディ食らったら半日くらい動けなさそう。なんか一転してすげえドロドロの家庭に見えてきた。

 

 

 

 

 

 それはさておき、ここで行われているのは「ジャガイモの大きさによる勝負」である。さて、このカレーは母親の手によって配膳されたものであり、なおかつ母親はこのような勝負が行われることを知らない、という仮説を立てる。するとこの勝負、完全に運のみで勝敗が決することになる。

 

 ゲームはその性質上、いくつかのパターンに分けられる。時間をかけた人が勝つ(あるいは上位になれる)システムは「Time to win」、技術がある人が勝つのが「Skill to win」、お金をかければ上位にいけるのが「Pay to win」などなど・・・そしてここに加わってくるのが、運のみで勝てるゲーム、「Luck to win」システムのゲームである。

 

 上記のジャガイモポーカー(今勝手に名付けました)は、このLuck to winのシステムに則っている。そして、私の所感ではあるが、現代はこのような「Luck to win」のゲームがやや多くなっている気がする。

 

 もっと厳密に言えば、複数の要素によって結果が決まるゲームにおいて、運の占める割合が多くなっている、という感じだろうか。ソーシャルゲームの多くは(副次的にPayの要素が入ってくるものの)基本的にLuckが最大の要素を占めるし、格闘ゲームFPSにおいてもその場の偶発的な要素が勝敗に大きく関わるもの(いわゆる「ワンチャン」の生まれやすいもの)が流行の中心にあるように思う。「俺のほうが大きいジャガイモが入ってた!」と「俺は無料石でSSR引けた!」とは、まったく同じ文脈の発言だ。

 

 

 

 おそらくこのようなタイプのゲームが流行してきていることの背景には、「訓練や準備に時間をかけられない」という現代人の特性が影響しているのではないか。かけられない、というのは、トレーニングモードやレベル上げが嫌いだから時間をとりたくないという人もいれば、そのゲーム以外の生活が忙しくてできない、という人もいるだろう。(「いやいや俺は練習好きだよ」という人もいると思うが、総体としての話です。)このような特性についてはもはや前提だと思われるため、今回はこの点についての議論は避ける。

 

 運で勝負が決まることが悪いわけでは決してない。逆転要素があるゲームは盛り上がるし、時間をかけなくても運とお金でランキング上位を狙えるゲームデザインはたいへん合理的だ。そこについて否定する気は全くない。(私も先週たまたま暴発した技が当たって勝ったし、偉そうなことは言えない。)

 

 

 

 私が憂慮しているのは、このようなゲームプレイが、「現実」に与える影響である。

 

 

 

 「ゲーム脳」という言葉がある。一般的な文脈では、ゲームの影響で善悪の判断がつかなくなったり、仮構と現実の区別がつかなくなったりすることを指して使われる言葉だ。

 

 私はこの言葉が嫌いだ。頭の固い大人達の間では、ゲームがまるで犯罪の温床かのような扱われ方をしている。ゲームやったくらいで善悪の判断がつかなくなるような馬鹿は、ゲームやってなくてもいずれ善悪の判断つかなくなっていたに決まっている。これについては叩かれてもいいから断言したい。全面戦争?上等だ。こっちには任〇堂がついてんだかんな!!バーカ!!

 

 

 

 しかし同時に、「ゲームの考え方が現実に及ぼす影響はゼロではない」とも思っている。それは善悪の判断や現実の把握とは違う部分、「成功体験」への影響だ。

 

 ゲームには必ず目的が存在する。全クリであってもいいし、1試合の勝利でもいい。あるいは、「世界観を堪能すること自体が目的」だったりするわけだ。どんなゲームであっても、何かしら目的の達成が必ず念頭に置かれている。ゲームは我々に、「達成」することのよろこびを教えてくれる

 

 レベル上げをしてボスを倒したとき、我々は「準備」によって「達成」をなしたと考えるだろう。練習したコンボが実戦でできたら、「練習」によって「達成」を得たと思うはずだ。このような体験を通じて、我々は現実世界でも「準備」や「練習」によって目的が達成できることを身をもって知ることになる。ゲームを通じて、いわば我々は、現実世界のリハーサルをしているといえる。(ただし、現実世界へのフィードバックが効果的にできるかどうかは個人差があります。たとえば私はレベル上げは好きですがプレゼンの準備はめちゃくちゃ手を抜いてます。というように、ゲームなら数十本とクリアしたけど現実世界がまったくうまくいかない人もいると思います。)

 

 このとき問題になるのが、「Luck to win」タイプのゲームなのではないだろうか。運によって勝利する/ハイスコアを得ることができたとして、それが現実世界にフィードバックされたとき我々が痛感するのは、「現実もこんなもんだ」ということ。・・・いや間違ってはいない。間違ってはいないが、現実の成功を手にしたとき、「練習/準備によってうまくいった!」ではなく、「今回はたまたまうまくいったが、次回はどうなるか・・・」と考えてしまうのは、あまりにも寂しいとは思わないだろうか。

 

 現代人は、「すべてのものごとは偶然である」という観念のもと生活している傾向にある、と精神科医斉藤環氏は論じている。「Luck to win」のゲームがもてはやされる現状は、そんな時代を反映しているのかもしれない。べつに「全部のものごとは必然だ」なんて言わないが、「全部偶然だ」っていうのも、だいぶ凝り固まった考えだと思う。柔軟な考えでゲームも人生も楽しんでいければいいと思う。

 

 

 

 

 

 今回の記事に関して、べつに関係ない、ゲームが楽しければいい。という意見は間違っていない。この記事を読んで「考えない」こともあなたの自由だし、何か考えたほうがすごいというわけでもない。ただ、これを一端として、なんとなくみなさんの日頃の考え方を少し刺激できれば幸いである。私は、主役にはなれないけどみなさんの心に残るような、そんな存在になりたい。

 

 

 

 

 

そう、まるで、

 

 

 

 

 

カレーのジャガイモのように・・・(深イイの音)

 

 

 

 

 

(今回はオチがいまいちパッとしなかったですね。お前らのせいだからな、ったく)