硬直1000F

3日でやめます

おじいさんは山へ柴刈りに

 

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山の柴刈りって何?と常々思っている。

 

 庭ならわかる。自分の土地だから。いったい山にある柴刈ってなんの意味があるんだ。 利用価値もなさそうだし、べつに見栄えを気にするものでもない。おばあさんが懸命に洗濯しているさなか、適当に山で柴を刈っているおじいさん。絶対そんなに時間かからないだろ。なんか他のことやってるでしょ絶対。外回りに行ってきますとかいって適当にコンビニの駐車場でPornHub見てるリーマンと一緒じゃねえか。柴を刈れ柴を。山で何を見てるんだ。悪徳マッサージ店の媚薬オイルエステのやつか?わかるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 日本人なら誰もが知っている昔話、桃太郎(個室ビデオの店じゃないよ)。話の枝葉は時代や地域によってブレがあるようだが、大枠は同じだ。おじいさんとおばあさんに拾われた桃太郎が、犬・猿・雉の家来とともに、村人を苦しめる鬼を倒すという、勧善懲悪のストーリーになっている。

 

 

 

 私は幼少の頃から、この桃太郎について疑問に思う部分があった。犬・猿・雉と出会うくだり、桃太郎からきび団子をもらうことで、この3匹は家来として奉公することになる・・・・・・いやいや、マジ?さすがにきび団子くらいでそんな簡単についていくか?こいつら小学校のとき「知らないおじさんについていかない」的な安全教育されてないんか?といった疑問である。

 

 

 

 ここで一度、この取引の内容を公正に評価するため、童謡「桃太郎」を見返してみよう。

 

 

1. 桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたきび団子、一つわたしに下さいな。
2. やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
3. 行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。
4. そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
5. おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
6. 万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
7. Put your hands up, put your hands up!! Floorわかせる俺らのFlow, 目ェ見開いてReady to go!!

 

 

 熱いリリックだ。MC MOMOのライムが旋風を巻き起こす。フロアからわき上がる歓声。もう限界です。(ヒップホップのことはあんまり知らない)

 

 

 

 この歌詞で気になる部分は2点。これを条件の整理に使ってみよう。

 

① 1.より、渡されるきび団子の数は1つであるということ。

② 3.より、1つのきび団子に対してどこまでもついていくつもりであるということ。

 

 つまり、犬・猿・雉は、きび団子1個に対し、無限の労働力を提供するつもりである、ということになる。たかだか団子1個に、自分の一生分の労働力を提供する。こんな馬鹿げたことがあるだろうか。やはり畜生だからバカなのか。

 

 

 

 

 このとき桃太郎と3匹の間で行われている取引の内容を、もう少し厳密に考えてみたい。

 

 

 

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 「マルクス」という経済学者の名前を、みなさんは聞いたことがあるだろう。(写真は葉加瀬太郎です。)彼は著書「資本論」の中で、「物象化」という現象を論じている。一応リンクを貼るが、難解なので見なくていい。

 

物象化 - Wikipedia

 

 また、ここには挙げられていないが、別の文脈でこのように述べている。

 

[人々が彼らの労働生産物を互いに価値として関連づけるのは、当の物件を同種の人間的労働の物象的外被だとみなすが故ではない。逆である。人々は交換において、彼らの異種の生産物どうしを価値として等置することによって、彼らの異種の人間的労働として等置するのである。]

 

 商品の価値基準は、生産のために行われた労働の価値をあらわす。しかし、実はその労働の価値は初めから決まっているわけではなく、商品どうしが(あるいは貨幣と)交換される際に、遡及的に決まるのだ。

 

 要するに、商品と商品との等価交換が行われた時点で、その商品を作るためにかけられた労働力も等しい、ということだ。ということですよね?まあいいじゃんそれで。細かいこと言うな。

 

 

 

 

 

 さて、それを踏まえた上で改めて、桃太郎と3匹の取引を考えてみよう。

 

 

 

 この取引で行われているのは、きび団子と3匹の”身柄”の交換だといえる。つまり、

 

きび団子(K) = 動物1体の身柄(A) × 3

→ K = 3A

 

の式が成り立つ。

 

 先ほどのマルクスの論と照らし合わせると、この商品の背景にある労働力は等しいことになる。原作によれば、きび団子はおばあさんの手作りである。したがって、

 

おばあさんが団子作製に要した労働力(B)= 動物1体の一生分の働き(A’) × 3

→ B = 3A’

 

の式が成り立つ。ここで、「何処までも」の条件よりA’は無限であるから、

 

B = 3 × ∞

→ B = ∞

 

となり、Bも無限であることが導かれた。

 

 

 

 導かれた、と書いたが、これは明らかにおかしい。3匹はきび団子の背景におばあさんの無限の労働力(ただし一生のうち)を認めているが、それならば、おばあさんは生まれた瞬間からきび団子を作り始めないと採算が合わない。さすがにそれは現実離れした考えであろう。

 

 となれば、もしかしたらきび団子には、労働の物象化としての商品価値以外に、言外の付加価値があったと考えられるのではないか?

 

 

 

 

 

 ここまで書けば聡明な読者のみなさんは気づかれるかもしれない。そう、きび団子の正体は、麻薬である

 

 

 

 麻薬の歴史は長い。そしてその悪影響が表沙汰になってからは、さまざまな方法で取り締まりが行われてきたと同時に、捜査の目を眩ます隠蔽工作も進化してきた。そしてその最もプリミティブな手法が、隠語である。現代でも、覚せい剤をシャブやアイスと言ったり、大麻を大野くんと呼んだりというのは、メジャーな隠蔽工作だ。となれば、「きび団子」も何らかの麻薬の隠語として使われていたと考えるのは、実に自然である。

 

 その証拠に、「きび団子」という呼称は、江戸・元禄の頃(1704年-)から使われ始めたものらしい。それまでは「とう団子」と呼ばれていた。史実によれば、1702年には江戸幕府中町奉行所(それまであった 町奉行所=交番 の補佐的なもの)が配置され、江戸の警備が強化されたことがわかっている。団子常用者たちがこの捜査網をかいくぐるため、それまでの呼称を改めたことは、想像に難くない。

 

 

 

 「きび団子」が依存性の高い麻薬の隠語である、というこの仮説のもとでなら、先ほどの3匹の異常な取引にも整合性が出てくる。ドラッグは中毒性があると同時に、一定期間服用しなければ、禁断症状がおこるものもある。3匹がこのような極限状態にあったと仮定すれば、一生分の労働と引き換えにたったひとつの脱法団子を手に入れようとする心中も察することができる。

 

 このような”付加価値”により、本来は成り立つはずのない等式が成り立ってしまう。3匹の動物が鬼との戦いで酷使されたその裏には、きび団子に隠されたこのような秘密があったに違いない。

 

 

 

 

 

 改めて考えると、これは非常に緻密に練られた姦計である。しかも、これを計画したのは桃太郎ではない。おばあさんだ。「きび団子」を実際に作ったのはおばあさんであり、持たせたのもおばあさんだ。「いいかい桃太郎。鬼ヶ島へ行く途中で、犬・猿・雉に出会ったら、このきび団子をスプーンにのせて、ライターで炙って溶かし、注射器で吸い上げて、一旦上に向けて何度か指ではじいてしっかり空気を抜いたうえで、腕の静脈にうってやるんだよ。」と笑顔で送り出したのだ。

 

 何も知らないのは桃太郎ばかりだ。彼もまた、おばあさんに利用されたのだ。

 

 いや違う。おばあさんの手のひらの上で踊っていたのは、我々読者も同じだ。目を覚ますのだ。モンエナ程度じゃどうにもならんぞ。

 

 

 

 

 

 さて、最後にひとつ、読者のみなさんに問いを残したい。

 

 この考察にはひとつ穴がある。それは、3匹の動物がもともと薬物(団子)依存症になっていたのはなぜかという点である。おばあさんの計画の成功のためには、3匹が既に薬物(団子)依存症になっていることが前提条件になってくる。そこは周到なおばあさんのこと、もちろん事前に手をうってあったに違いない。しかし、どうやってこの3匹にあらかじめ薬物(団子)を投与できたのか?

 

 

 

 この3匹の生息地はいずれも山。そして、中毒状態にさせるためには長期間にわたってエサに薬物(団子)を混入させ、それを意図的に配置する必要がある。

 

 もしかしておばあさんには、「日常的に山に出入りし、その地形や動物の生態に精通する協力者」がいたのでは・・・・・・?

 

 

 

 


 ・・・・・・私に言えるのはこれだけだ。見当のつかない方は、この記事を最初から読み直してみてほしい。きっと答えが見つかるはずだ。