硬直1000F

3日でやめます

占いってもしかしてスポーツなのでは

f:id:dr0ptheh8:20171122180537j:plain

 

 高校生の頃から、毎日慌ただしい朝を送っていた。朝食を軽く食べ、寝癖でぐしゃぐしゃの髪型を正し、前日に持って帰ってきてそのままのカバンを引っさげて玄関を出る。そんな朝を過ごす中で、「とにかく急いで支度をする」ということ以外に気をつけていたことが1つだけある。それは、「TVでやっている星座占いを見ない」ということだった。

 

 

 

 

 

 めざましテ〇ビとかでやっている星座占いがある。12星座をランキングしたのち、最下位の星座を持つ愚民どもに捨て台詞のように謎の救済措置を残して去って行くあれだ。毎度毎度救済措置がマジで謎すぎる。なんだ「象牙のグッズを身につけると運気アップ!」って。今時コートジボワール人でも持ってねえだろ。

 

 

 

 といってもここで、「TV局は腐敗してるから信用しない」とかそういうマスメディア論を振りかざそうというわけではない(思ってはいる)。そうではなくて、そもそも占いがあんまり得意ではないのだ。というのも占いって、良かったときと悪かったときの「印象に残る度」の差、やばくないっすか?

 

 

 

 私は世間でいうところのさそり座なのだが、「今日もっともラッキーなのはさそり座の方!」って言われたこと、たぶんない。いやあるのかもしれないが、印象に残っていない。上位にランクインしたことがあったかすら怪しい。それに対し、下位にランキングされることは異様に多かった。もう圧倒的に「ごめんなさ~い、さそり座の方で~す」って言われてる。めちゃくちゃ謝られてる。だいたい悪いと思ってないのに謝るんじゃねえ。お前はビッグダディの息子のどれかか。

 

 さそり座ってほんとうに、実際に下位多くないですか?と私は本気で思っているのだが、そんなことを本気で思ってしまうくらい下位の印象のが強い。

 

 

 

 もともと占いは信じない質ではある。しかし、なんだかんだで見ると信じてしまうのだ。面と向かって(画面だけど)「お前の運は最低!ゴミ!」って言われると気にならないはずはない。そして往々にして、その日起こったちょっと不運なこと(電車で隣に座った中年女性からガラムマサラみたいな刺激臭がして苦しめられるとかその程度のこと)を、「うわー俺今日最下位だったもんなー・・・これかー・・・」と結びつけてしまうことがある。そして悪い印象とババアのガラムマサラだけが残る。わあ。なんかロマンチック。

 

 

 

 私にとっては、そんな無間地獄を避ける唯一の手段が「見ない」ことだった。それはある意味で、その日の運を良好に保つための護身術だったといえる。

 

 

 

 

 

 さて、星座に限らず、世の中には占いがあふれている。テレビで、雑誌で、ウェブ上で、多くの人がさまざまな占いに一喜一憂している。ツイッター上でも、たとえば診断メーカーの結果なんかは目にすることが多い。

 

 

 

 この診断メーカー、当たり前であるが、信憑性はほとんどない。名前の文字列からアルゴリズムに従って結果をランダム表示しているだけで、もはや占いですらないものもある。先日も「~~~~@エロ垢」とかいう承認欲求の権化みたいなヤツが、エロいかエロくないか判定するのみの終わってる診断で出た結果を貼り付けて「やだー♡」とか言ってるだけのツイートにオッサンたちが群がってる様を見て、世界が終わったか?と思った。そんな診断メーカーの結果なんかより、当然血液型占いや、星座占いのほうが信憑性が高いことは明白だ

 

 

 

 ・・・・・・明白なのだ。でも、それはなぜだ?なぜ診断メーカーよりも血液型/星座占いのほうが信憑性が高いのか?

 

(今回ネタ要素はここまでなのでカジュアルに読みたい方はもうブラウザ閉じてもらって大丈夫です。あざっした!

 

 

 

 

 

 診断メーカーの内容は完全に虚構である。しかし、虚構であるということについて、血液型/星座占いが反論できる余地は少ない。こんなことを言うと怒られそうだが、「あなたはエロい人間です」という診断メーカーと、「ラッキーアイテムは象牙のグッズ」という星座占いと、「AB型は変人」という血液型占い、どこかで”虚構度”による線引きができるだろうか?私はできないと思う。

 

 

 

 では、なぜ我々は血液型/星座占いを信じてしまうのか。それは例えば長く信じられているという伝統性であったり、占いのプロが提言しているという専門性であったり、なんとなく誰でも当てはまるという普遍性だったりするんだろうが、私の考えをひとつ述べておきたい。血液型占いや星座占いは、”身体”と結びついていることが、大きなファクターなのではないか。

 

 

 

 

 

 “身体”は、さまざまな学問で頻繁に取り沙汰されてきたテーマである。しかし、実はその考え方は、20世紀に入るまでずっと固定的なものだった。身体は長らく、精神を収めるための単なる「器」と考えられていたのである。現代になって身体は、精神と密接に結びついたものであると同時に、単なる物質ではなく、ときには上位の存在として精神に要請を出したりする”他者”的な側面がある、という考え方が主流になってきた。

 

 とくに最近の研究では、アメリカのベンジャミン・リベットという教授が行った、大脳の電位に関する実験が興味深い。端的にいうと、脳がある行動をしようと”意図”するより先に、身体はその動きを始めているとのことらしい。我々は精神によって身体を支配していると考えがちだが、この結果によれば、もしかしたら身体が精神を支配しているのかもしれないとも思えてくる。上記の「身体が他者である」とは、そういうことを指して言っている。

 

 

 

 さて、このような身体の他者性に関して、評論作家の内田樹氏が編集した「転換期を生きるきみたちへ」という著作(去年出たばっかでホットな話題が多いので面白いです)の中で興味深いことを述べていた。要約して引用する。

 

 

 

 

 

我々の脳には、不要な情報(ノイズ)をカットする機能が備わっている。人間はこの機能を発揮するのがデフォルトであり、基本的には「話を聞かない生物」である。しかし、人が自己の身体に向けて問いを発したとき(たとえば誰かから「いま揺れた?」とか「寒気しない?」とか訊かれ、自己の身体に確かめてみる瞬間)、この機能はストップし、そのとき身体に流し込まれた情報はすべて「宙ぶらりんな状態」で保存される。ここでは情報の要不要は判断されない。

 

(中略)

 

コミュニケーションにおいてはこの「情報が身体に一旦すべて保存された状態」が理想である。脳で判断したとき、我々は「理解」することが前提にあるが、身体はそれをしない。「わかったような、わからなかったような・・・」という状態が、コミュニケーションにとっては最上なのである。

 

(氏はこの「宙ぶらりん」の状態が最上である例として、男女のコミュニケーションに言及していた。確かに異性に「あなたのことを完全に理解した(脳で判断した状態)」と言われるより、「あなたのことをもっと知りたい(身体に保存した状態)」と言われた方が嬉しいのは間違いない。)

 

 

 

 

 

 さて、これも引用になるが、人間は自己の身体に向かって問いを発するとき、即答することは不可能だ。誰かから「いま揺れた?」と言われたとき、あなたは(誠実に答える気があるなら)一旦自分の身体に確認をとるはずだ。そこには必ずタイムラグが生まれ、判断できない場合は追加のデータを待つことになる。そのとき入ってくるデータは全て「身体に一時保存」されることになる。

 

 

 

 さて、遠回りしてしまったが、血液型占いはこの「一時保存」を引き起こしている、というのが私の考えだ。

 

 血液型占いの結果は、我々の身体に聞かないとわからないことが多い。なぜなら、「自分勝手である」とか、「几帳面である」とか、「同じものを食べ続けても飽きない」とかの性質・行動は、我々の身体と紐づけられているからだ。私はO型だが、「おおざっぱである」とか言われたとき、「あー・・・思い返してみると・・・そうかなあ・・・」と、”身体に尋ねる”プロセスを経ることになる。つまり我々は、占いの結果をすべて身体に「一時保存」し、そのデータを身体に投げ込んでいるのだ。

 

 

 

 先だって述べたように、これはコミュニケーションにとって最上の状態だ。そしてこの状態はより高精度な検証のため、「もっと知りたい」という要請を精神に送ることになる。人は占いの結果を知ることで、占いを求めるようになるのだ

 

 

 

 血液型や星座など、"身体"に根ざした占いの信憑性が高い理由はここにある。血液型や星座によって占われているのは我々の脳ではない。"身体"なのだ。そして、診断メーカーの信憑性が低くなる理由も、同時に明確になるだろう。

 

 

 

 このことは、占いのほうにもメリットがある。占いはその構造上、100%信用されてしまうと、その結果との間に齟齬が生まれる。誰にでも完全にあてはまるなどということはあり得ないからだ。だから、「当たっているような当たっていないような」、「宙ぶらりん」の状態が最上なのである。さすがだ。よくできている。

 

 

 

 

 

 

 

 占いは、我々の身体との結びつきが強いほどその信憑性が増す。未来を予測し、我々に指針を示す精神的な行為は、その実我々の行動にこそ舵を取る、きわめて身体的な行為であるといえるだろう。ということでした。

 

 

 

 

 

 

 

 ほら、あれ以降真面目だったでしょ?私は嘘はつきません。ついたことない。