硬直1000F

3日でやめます

一世一代のあるあるネタ言います

 

 

 渾身のやつ。いきますよ!カメラ準備オッケー?言います!

 

 せーのっ

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 一旦歌わないとアルファベットの順番がわからない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はい、ということでね。本日のテーマはこれです。

 

 アルファベットの順番を、みなさんは正確に覚えているだろうか。英和辞典とかをひいていて、「あれ?SってOより前だっけ後だっけ・・・」みたいになった経験、一度はあるのではないか。

 

 今や英和辞典をひくことも殆どなくなったが、この歳になっても未だに状況は同じだ。そして、そんなとき私は必ず脳内で「あの歌」を歌うことになる。

 

 あるとき気になって「あの歌」を調べてみたら、いくつかの派生形があるらしく、日本でポピュラーなあれもその派生のひとつらしい。本場の歌とは、例えば2小節目なんかに違いがある。日本はH-I-J-K L-M-Nで一旦切れるが、オリジナルはLMNOPまで全部いく。ここの勢いがすごい。エレメノピーだけ急に倍速。でまた止まる。ウィンドウズ更新プログラム

 

 さて、ここで私はひとつの考えに逢着した。この英語版の歌、ちょっと合理性に欠けてません?

 

 

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 ・・・いや、もちろんわかっている。言いたいことはわかる。オリジナルは英語版だ。それは重々承知している。わかったからとりあえずちょっと聞いてほしい。

 

 この英語版の歌の全容がどうなっているか、まずはWikipediaから引用するので見ていただきたい。

 

a-b-c-d-e-f-g,
h-i-j-k-lmnop,
q-r-s, t-u-v,
w--x--y-and-z,
Now I know my ABCs,
next time won't you sing with me ?

 

 先述のように英語版では、2小節目の末尾にLMNOPを突っ込んでいる。まあそれはいい。しかし、そのせいで次の小節には休符が挿入されることになるし、YとZの間に至ってはandとか入ってきちゃってる。何コレ?序盤に積みすぎじゃない?絶対この作曲者と一緒にしゃぶしゃぶ食べ放題行きたくない

 

 

 

 こんな構造になっている原因は、各小節の末尾で韻を踏むことを前提にしているかららしい。確かにそれぞれの末尾は「イー」の音で統一されており、そういう意味では小気味良さを感じることができるのも、まあ一理ある。つまりここでは、アルファベットを均等に並べるという規則性・合理性よりも、「音としての気持ちよさ」が優先されているわけだ。

 

 歌でなくとも、英語で作られた詩なんかは、文末で韻が踏まれていることが多い。そして、これは英語に限ったことではない。漢詩押韻なんかはそれを如実に表した例だ。日本ではこのような韻の文化は最近になってから発達したものであるが、「リズムを生み出す文」として広義に捉えるなら、古くは短歌や俳諧にも言及することができる。現代のミュージックシーンを顧みても、似たフレーズの繰り返しを多用したり、英詞による作詞だったりと、意味より音を重視した作りの楽曲が多い(悪く言っているわけではない)。「音による小気味良さ」を求める風潮は、万国に共通の心理だ

 

 

 

 さて、このような風潮は、いわば「音が意味を凌駕した状態」といえる。語の配置や詞それ自体の意味よりも、口に出したときのリズムが優先された状態。

 

 少し形は変わるが、「口に出して言いたくなる言葉」なんかも同じである。昔習った言葉で、どんな意味なのかは覚えていなくとも、音の響きだけは小気味良くて覚えている、というやつがありはしないだろうか。万緑叢中紅一点とか、マルクス=アウレリウス=アントニヌスとか、禁中並びに武家諸法度とか、バコバコバスツアーとか。

 

 音の響きを感じ取るのは、脳ではなく身体だ。ということは、「意味よりも音の響きが優先された状態」、「意味は覚えていなくても音の響きは覚えている状態」、これらは言い換えれば、「身体が脳を凌駕した状態」とも呼べるだろう。

 

つまり、詩や歌などの芸術作品は、我々の身体(本能)に訴えかけている部分が多いということだ。なぜ小気味良く感じられるかなどというのは、理論で説明できるものではない。本能的に感じ取るものだ。

 

 

 

 

 

 さて、現代における我々の身体は、他者を必要とするものである、と考えられている。我々は自己の身体を認識するために、他者が必要なのである。例えば世界に人間があなた1人だけだったとしたら、たとえ鏡があっても、自己の身体を正確に把握することは不可能だろう。自己の身体が他者と比べてどのように違うのか、という比較(それも複数のサンプルとの比較)を通して、我々は自己の身体を認識し、ひいては自己が何者なのかを捉えようとしていくことになる。

 

 その意味で、我々の身体は自己のみの所有物ではない。あなたがあなたの身体の把握のために他者を必要とするように、他者もあなたを必要としている。つまり、我々の身体は我々の共有物なのだだから、私にはあなたが必要で、あなたには私が必要なのだ。これはもうほんとに本心だ。この記事で言いたかったのはこういうことだ。私の気持ちが伝わっただろうか。男は帰れ。

 

 

 

 世でもてはやされる「あるあるネタ」がウケる根源は、ここにあるのではないかと私は考えている。我々は自己の認識のため、絶えず他者を観察している。だから「上手い観察」に面白さを感じるのだ。「MAC片手にスタバでCoffee」とか、「スマホはもはや俺の臓器」とか、「地元の可愛い女は大体地元のDQNにやられてる」とかでクスリときちゃうのだ。ごめんね。バカにしてないからね。好きなバンドだよキュウソ。

 

 

 

 占いの話題でも言及したが、我々は身体を通じてつながっている。それに普遍性を見いだすあるあるネタは、そりゃウケて当然の、狡猾な笑いなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 なんとなく散らかった話になってしまったが、あるあるネタ自体は面白いので各所にどんどんやってほしいと思う。じゃ、僕は身体が脳を凌駕し始めたので、バコバコバスツアーでも見ようと思います。邪魔しないでください。絶対に。じゃそういうことで。