硬直1000F

3日でやめます

今こそ政治家はVtuberになるべき

 

 バーチャルユーチューバー(以下、Vtuber)が隆盛を誇っている。かく言う私も電脳少女シロやら、輝夜月やら、ミソシタ氏やらをチャンネル登録している状況だ。めちゃくちゃ面白いというわけではないのだが、そこはかとない親近感や可愛らしさによる中毒性(ミソシタはトラックがかっこいい)があり、見ていて飽きない。なんでも、今やVtuberのチャンネル数は1000近くにまで及ぶらしい。多っ。仏の数くらいいるな。(仏はもっといる。)今回はこのように流行しているものを論じることで人気に乗っかってPV数を稼ごうという魂胆です。

 

 

 

 

 

 いきなり少し話が逸れるが、Vtuber(というかキズナアイ)が生まれる前から、似たようなことを行っているミュージシャンがいた。今やイギリスを代表する大物バンドとなった、Gorillazゴリラズだ。

 

 Gorillazはいわゆる覆面音楽プロジェクトで、ブラーというバンドのボーカル、デーモンアルバーンが中心となって結成されたグループだ(ちなみにギターは日本人の女性)。このグループは演奏者のビジュアルを表に出さず、MVやライブでのビジュアルは全てアニメキャラが演奏するという形式になっている。

 

 

 

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Gorillazのビジュアル。曲もめちゃくちゃいいので興味ある方は是非聴いてみてほしい。

 

 

 このGorillazの存在とその”中の人”を知ったときに私が得た印象は、「これ、”強くてニューゲーム”じゃん」だった。

 

 “強くてニューゲーム”とは、RPGなんかの作品で散見できる、クリア時のステータスを引き継いでもう一度最初からシナリオを開始できるというシステムだ。このシステムの醍醐味は、なんといっても爽快さにある。初回のプレイで苦戦した敵を、ばったばったと薙ぎ倒していく快感。もちろん、閾値を超えると戦闘自体が単調に思えてきてしまったり、ということもあるにはあるのだが。

 

 ブラーという90年代の超有名バンド(日本ではあんまり知られてないけど)のフロントマンが、現代的な音楽を追究するというプロジェクト。売れないわけがない。しかしその折には、デーモンアルバーンという人間ではなく、2Dというキャラクターとして生まれ直しているわけである。まさにこれは”強くてニューゲーム”に該当するだろう。こんなものは日本人でいえば小学生に混じって桑田佳祐にピアニカ演奏させるようなもの(そうなのか?)で、できて当然(ほんとうか?)だし、評定はもちろん5段階のうち5になるにちがいない(この例え大丈夫か?)し、市内のピアニカコンクールでも金賞を取ってくる(ピアニカコンクールって何?)に決まっている。

 

 

 

 

 

 Vtuberの話に戻そう。私はVtuberもGorillazと同じように、”強くてニューゲーム”的な思想をはらんでいると考えている。生身の人間に二次元のキャラクターを当てはめることで、生まれ直しを図っているわけだ。では、Gorillazの場合に「音楽的素養」「ミュージシャンとしてのネームバリュー」をステータスとして引き継いでいたのが、Vtuberではどんなステータスを引き継いでいるといえるのだろうか?

 

 先に私なりの結論を述べておこう。引き継いでいるステータスとは、「人間性」である。

 

 

 

 我々はみな、年数に違いこそあれど、それまでの人生でさまざまな経験を積んできている。当然彼/彼女なりの語り口とか、主義主張とか、性格の良し悪しと言うような、人間性を持っているわけだ。

 

 従来、他者が彼/彼女の人間性に触れるためには、何らかの関係を持たなければいけなかった。友人になったり、同僚になったり、出会いの形はさまざまだが、まずは物理的な接触がなければ、その人間性に対する触れあいはなされることがなく終わってしまう。そして、物理的外見(声や話し方なんかも含めて)的に受け入れられない存在ならばそこで人間性に対する触れあいはストップしてしまう、というのが現代以前のコミュニケーションだ。誰だってキモいオッサンとは長時間話したくないし、どんだけ面白くてもキモいオッサンの人間性なんて興味はないのだ。もうこれは人類普遍の真理だ。だからもうオッサンはグラビアアイドルのブログにクソみたいなコメントを書くのをやめろ。「食べてばっかりだと太っちゃうゾ☆」って何だ。最悪にもほどがある。タニタにでも履歴書送ってろ。送るな。

 

 ”外見”という枠組みをまず破壊したのはインターネットだった。インターネット上の我々は外見を持たない。そこでコミュニケーションをとる人間は、いきなりお互いの人間性を開示し合うことになる。だから、年齢や外見、立場にかかわることなく、お互いに本音でコミュニケーションがとれる。これが第一次的なコミュニケーションの革命だったというのは、各所で言われているとおりだ。

 

 しかし、それも今や(少なくとも日本では)ほぼ全人類的なものになってしまった。SNSは登録していない人のほうが少ないくらいだろうし、メディア媒体もウェブ上のものがかなり市民権を得ている。もはやインターネット上には人間性が氾濫してしまった。実社会の何倍もの人間性が蔓延するインターネットという暴風に、我々はさらされ続けている。

 

 

 

 このような状況の中で生まれたVtuberは、第二次革命に近い存在だと私は考えている。

 

 Vtuberの形にすることで、我々の人間性は擬似的な外見を得ることができる。人間は視覚的情報を非常に重視する動物だ。そのため、Vtuberという肩書きに加え、擬似的であれ美しい外見を持つことで、人間性が氾濫するインターネット社会の中であっても、視聴者の目をひくことができる

 

 このことは、ただの文章や小説よりも、漫画の形にしたときにツイッターで拡散されやすい、ということと同じだ。もうこんなテキストサイトは時代遅れなのだ。読むのに10分かかるこんな文章より、2秒で見られる絵のがバズるに決まっているのだ。神様どうか生まれ変わったら私を絵のうまい向井理にしてくれ。(ということを書きながらもしやと思って調べたが向井理は絵を描くのが苦手らしい。危なかった。向井理の絵が上手かったらそれはもう完全に私の才能が向井理”寄って”いることに他ならない。あんパンを2つに割ったら片方にはあんがギッシリ、もう片方はスカスカの空洞。その空洞のほうが私だ。私は残ったわずかばかりの才能も向井理に”返さ”ねばならず、向井理ファンに命を狙われ、向井理ファンの前で磔刑にかけられ、向井理ファンのロンギヌス(一番ガタイのいいブス)によって脇腹を貫かれるのだ。そして私は十字架に拘束されたままこう言うのだ。「私はそれでも、汝ら向井理ファンを愛そう」。――そのとき一人の向井理ファンが足を止めた。「姿形は違えど、この男は紛れもなく向井理の片割れ・・・ならば私は、向井理に対するそれと同じように、この男を愛そう」。となっていたに違いない。あれ?悪くないな。向井理ファンの女性のみなさん(ロンギヌス以外の方)、DM待ってますよ。)

 

 話が逸れたが、つまるところVtuberというのは、人間性”への到達を促進する(取るに足らなかったはずの個人に目を向けられるようになる)というシステムだと言える。批判を覚悟で言うが、シロの中の人と同じレベルで声が可愛い人間は何人もいるし、月ノ美兎の中の人と同じようなオタク女子は探せば他にもいるだろう。それら人間性にはさしたる差があるとは思えない。しかし、彼女らの人間性に価値を認め、注目させるためにVtuberという選択的仮構性を持たせたことこそが成功につながっているといえよう。

 

 

 

 さて、ここでひとつの説を唱えたい。上記のことを逆に考えると、「氾濫しすぎて個々には目が向けられないもの」をVtuberの形で打ち出せば、視聴者がその価値により到達しやすくなり、注目度が上がると考えることができる。現に今でも、歌を中心的なコンテンツにおくVtuberや、絵の描き方を指南してくれるVtuberが存在しているらしい。恐らくそのうちお料理Vtuberとか出てくるだろう。

 

 これらのものは、すでに世の中にあふれすぎていて、単なる音楽やイラストでは話題にならないのが現実だ。しかしそれがVtuberの形になることで、人々はその音楽やイラストにアクセスするための”動機付け”が得られる。多くの人に見てもらえる。

 

 

 

 それならば、Vtuberが発信するコンテンツの最果てはどこになるか。私は”政治”だと思っている。

 

 現代の政治は(とくに日本においては)混迷している。その上、若年層は政治に関心がない。かくいう私もない。まず興味を持つのが難しいのだ。そんなことを考えるのに心血を注ぐくらいなら、家でモリ・ゲームを見て嘘でしょとか言ってたほうがよっぽど楽しい。このへんは商業主義が政治分野と混同されてしまっていることが原因だと思われるが、長くなるのでここでは割愛する。でもモリ・ゲームは見ろ。

 

 与党政治家の打ち出す公約もはっきり言って似たり寄ったりだ。野党についてはもはや言及することもない。

 

 

 

 それならば、いっそのこと政治家をVtuberにしてしまったらどうだろう?政治家は旧来、必ずその風貌を表に出すことを義務づけられてきた。人間はどうしても外見で人を判断してしまう。しかし、その部分は政治能力とは本来無関係であり、切り離されて論じられるべき部分だ。ちょうど、不倫をしても有能な政治家が存在するように。

 

 また、Vtuberの形にすることで、先に述べたようにコンテンツへの到達が容易になる。具体的には、公約や政治家自身の人柄に触れてもらえるようになる。表現の自由を守る、とかそういう公約は、このような手法と相性がいいのではなかろうか。

 

 

 

 日本では未だに、「政治家は人間としても立派でなくてはならない」という、総合的人物判断をする考え方が支配的だ。Vtuber文化としては先進国だろうが、恐らく前述のような”バーチャルガバナー”は、日本以外の国からこそ生まれてくるのかもしれない。誰もがバーチャルな自己を持てるようになる、未来の話ではあろうが。

 

 そんな時代になったら、私もバーチャルの外見を手に入れ、第二の向井理として生きていこうと思います。ファンのみんな、よろしくな。ロンギヌスは帰れ。