硬直1000F

3日でやめます

魔法の使い方:日常編

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“The truth is a beautiful, and terrible thing, and should therefore be treated with caution.”

Albus Dumbledore

 

 

 

―――魔法。甘美な響きだ。それは不可能を可能にする響き。空が飛べたら、楽に暮らせたら、あの人を手に入れられたら、あいつを消せたら。すべての夢想は、魔法によって形を与えられ、我々の前に顕現する。魔法に不可能はない。ただし問題は、魔法自体が夢想だということだ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 みなさんごきげんようハリーポッターは3巻まで読みました。映画は見たことありません。でもいいよねハリポタ。サブタイトルに毎回「の」がついてるとことかジブリみたいでいい。実質ジブリみたいなとこあるしな。違うか。ははは。わろとけわろとけ。

 

 

 

 なんとなく初めたこのブログだが、気づけば10回の更新を経た。飽き性の私には珍しくしばらく続いており、モチベーションも持続しているため、もし急にぱったりと更新が途絶えたら、このブログの人気を羨んだ”組織”に狙われて死んだと思ってもらっていい。それに伴い記事が増えてきたので、PC版のデザインを変えてみた。スマホ版は変わりません。甘えんじゃねえ。

 

 

 

 

 

 

 さて、「魔法」なんて大仰な語を掲げたが、べつにハリポタの話がしたかったわけではない。(なんなら最初のダンブルドアの名言とか本文となんの関係もない。)

 

 本物の魔法でなくとも、我々は魔法と見紛うような現象を目の当たりにすることがある。そして、日本人はそんな「まるで魔法のような」、あるいは消えたトランプが胸ポケットから出てきたり、あるいは書いた途端に乾いて消えない文字が残ったりという現象に、「マジック」と名前をつけてきた

 

 今回注目したいのは、もしかしたらこれらの中で最も我々に卑近なものかもしれない、「マジックカット」だ。

 

 

 

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 マジックカット。みなさんも目にしたことがあるだろう。カップ麺やお惣菜などの粉やらタレやらが入ったポーションパックのあれだ。「こちら側のどこからでも切れます」と書かれているあれ。なんかよく見ると人間の顔が真っ二つになったような恐ろしいキャラクターが描かれているあれである。なんなんすかねあれ。ちょっとした寄生獣やん。

 

 

 

 マジックカットの話をするにあたって、まずどんな構造なのか調べてみた。どうやら袋の端にめちゃくちゃ小さい穴が無数に空いていて、引っ張る力がかかったときに誘導的な役割を為し、簡単に切れる仕組みらしい。なんでも発明した人は、甥っ子が障子に円形に穴を開けてから、その部分を破りとっていたことから着想を得たんだとか。へえー。勉強になりましたね。さて、どこからが私の嘘でしょう?

 

 

 

 このマジックカット、いつからかほとんどのポーションパックに使われるようになった。コンビニの食品を利用すると、もうこれでない方が少ない。

 

 それ自体はまったく構わない。開けやすいし。マジックカットなのに開かないとかで知恵袋でキレてる方もいらっしゃるが、まあそれはPL法の言いがかり(ロウソクに香水かけたら炎上したとか)のレベルだと私は思う。

 

(ちなみにどうでもいいんですが上の知恵袋で質問してる方、おもしろすぎません?ID何コレ。どう生きてきたらたらこんな文字列思いつくの。ほんで何故オカマ設定なのに「~じゃ」みたいな口調なの。いまもう初見から10分経ってるのに面白くなくなる気配が全くないんですが。アンサー群も面白すぎる。やば。)

 

 

 

 そんなことは置いておいて私が話題にしたいのは、最近しばしば目にする、はじめから切れ込みの入っているマジックカットのことだ。

 

 

 

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 コンビニの弁当やお惣菜を食べるときなど、みなさんも一度は遭遇したことがないだろうか?もしかしたらあっても気に留めていないかもしれない。この「はじめから切れ込みの入っているマジックカット」(長いので以後「加工済マジックカット」とします)、大きな論理的欠陥をはらんでいると、私は考えている。

 

 

 

 そもそもマジックカットは「どこからでも切れる」ことが売りだ。これは取りも直さず、どこからでも簡単に手で切れる、ということだ。ならば、誘導役の切れ込みなど不要なはず。しかし切れ込みがあるということは、そこから開けるべきなのだろうか。いや、でもそれでは逆にマジックカットの意味がないのでは・・・と、加工済マジックカットの存在は、ある種の矛盾にも近い構造になってしまっている。

 

 加工済マジックカットによってパッキングされたタレは、言うなればシュレーディンガーのタレだ。切れ込みが入っていたことにより開くことになったタレと、切れ込みが入っていなくても開いたかもしれないタレが、同一の空間上で「重ね合わ」さって観測されることになる。

 

 このことは、思った以上に深刻な事態を引き起こす。なぜなら切れ込みの存在によって、マジックカットの信頼度自体が低下することになるからだ。

 

 切れ込みのないマジックカットの場合、我々はマジックカットの「どこからでも切れる度」に全幅の信頼をおくことになる。しかし、加工済マジックカットの場合は違う。我々は切れ込みの存在によって「あ、マジックカットってどこからでも切れるとは限らないんだ」という結論に至る。企業側はよかれと思って切れ込みを入れているのかもしれないが、結果的にその行為は、マジックカットという概念そのものへの我々の信頼度を下げる状況を招いているのだ。

 

 

 

 以上の点で、加工済マジックカットはそれ自体、矛盾した存在であることがわかった。しかし、問題はこれだけではない。ここまでに見てきたのは、切れ込みがマジックカットに与える論理的・精神的影響にすぎない

 

 私は、この切れ込みがマジックカットに対し、確かな実害も及ぼしていると考える。

 

 

 

 考えてみてほしい。先述のとおり、マジックカットは「どこからでも切れる」ことが最大の売りである。しかし、実は厳密には、「どこからでも」ではないのである。マジックカットには、鬼門ともいうべき、例外的に切れない箇所が2つある

 

 物質がある大きさでソリッドな実体を持つ場合、特殊な技術を用いた場合を除き、一定以上に細断することは不可能だ。つまり、家庭で(多くの場合は素手で)マジックカットを切る場合、両端に最も接近した部分は切ることができない。論理的には可能だが、実質的には不可能だ。

 

 さて、ここで加工済マジックカットの場合を思い出してみよう。確かにはじめから切れ込みが入っていることで、我々がパックを簡単に開けるための誘導にはなっている。しかし、先ほどの両端のことを考えれば、この切れ込みはそれと同時に、切ることのできない2箇所の部分を創り出しているとはいえないだろうか。一定以上の細断が不可能な我々にとって、切れ込みの両側は、袋の両端と同じように、物理的に「切れない」箇所へと成り代わる。切れ込みはあたかも自身が誘導であるかのように見せかけながら、その存在をスケープゴートに、3・4箇所目の「切れない部分」を創出していたのだ。

 

 

 

 見事な手口だ。切れ込みはその存在によって「マジックカットって絶対切れるとは限らないんだ」という精神的な方法のみならず、実際に「切れない箇所」を創り出すという物理的な方法も併せて、マジックカットの信用度の失墜を引き起こしていたのだ。

 

 

 

 

 

 かのアルセーヌ・ルパン(初代)は、「用心とは、しすぎるということがない。」と述べている。その点で言えば、加工済マジックカットはこの用心の賜物ということになるだろう。決して悪気があったわけではあるまい。

 

 しかし、ときには用心によって不慮の逆襲を受けるかもしれないということも、我々は考えておかねばならない。そして、このような論理的欠陥を見過ごすことのないよう、用心して過ごしたいものだ。

 

 

 

 そして私が最も用心を勧めたいのは、こんな辺鄙なブログで取り沙汰されてイジられてしまったオカマいちご変態滝修行さん、あなただ。

 

 

 

・・・・・・すごいな、まだ面白い。まるで魔法みたいだ。