硬直1000F

3日でやめます

映画館 vs Amazon Prime、映画館の負け

 

 

 「コマンドー」だけは絶対に吹き替え版を見るべきだと思う。もう金曜ロードショーなんかでも擦り倒されているので、ほとんどの方は見たことがあるのではないだろうか?実際、映画をほとんど見ない私でも5回以上は見ている。まだという方は是非見てほしい。昨今の表現でいう”パワーワード”が非常に多く、見ていて飽きが来ない。主人公に銃を捨てろと言われて本当に銃を捨てるベネット(敵キャラ)がいちばん好きだ(巷では「筋肉催眠」と言われているらしい。だいぶ面白い)。ちなみにストーリーはよく覚えていない。

 

 

 

 

 

 みなさんは、AmazonPrimeを利用しているだろうか。送料が無料になったり、お急ぎ便が使えたりというAmazonの有料会員サービスだ。そしてこのPrimeのみのサービスのひとつとして、アマゾンプライムビデオというものがある。

 

 アマゾンプライムビデオは、簡単に言うとオンデマンドの映画・映像販売サイト(アマゾンビデオ)から、いくつかの作品(といってもかなりの量)を自由に観賞できるというサービスだ。他にもHulu、Netflixなど、似たようなサービスも存在する。今回は表題にアマゾンプライムとつけたが、これらの定額制映像配信サービス全体についての考察である。でも定額制映像配信サービスっていちいち言うのめんどくさいしタイトルの引きが弱いからアマゾンプライムで統一していこうと思います。あしからず。

 

 

 

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 さて、表題の件である。私は映画館にはほとんど行かない(このあいだ久しぶりに行った(Free!!の劇場版が見たかったから)ら、シンプルに目的地を勘違いして遅刻した)のだが、そういう個人的な趣味嗜好を除いても、映画館はアマゾンプライムに勝てないと思っている。

 

 

 

 先に擁護しておくが、映画館を貶めようなどという気はまったくない。もちろん映画館にもアドバンテージはある。例えば、最新の映画が見られることであったり、臨場感があるという主張もまあわかる。実際4DXとかすごいらしい。(ところで4DまではわかるけどXって何?どんなワードでググっても出てこないし、「4D X 映像」とかで調べてたらいつのまにかXvideosにたどり着いてしまってあえなく1試合してしまったんだがどうしてくれるわけ?)

 

 また、キャラメルポップコーンがハチャメチャにうまいというのも大きい。あれは家で食べるものとはわけが違う。家で食べられるのはせいぜいキャラメルコーンくらいなものだ。いやあれもうまいにはうまいが、やはりポップがあるとないとではだいぶ違う。ヴィレヴァンみたいなもんだな!ガハハ!うまい!(ヴィレッジヴァンガードビレバンって表記するのに抵抗あり(知らん))

 

 まあ映画館の利点としてはこのくらいだろう。まああとは、PCやスマホタブレットなどがなくても映画が見られるというところくらいだろうか。とはいえたぶん両方ないという人はこのブログを読んですらいないと思うのでここは無視しておく。

 

 

 

 整理しておくと、映画館は

 

○最新性

○映像体験

 

 という主に2点について、アマゾンプライムよりも優位に立っていると考えられる。

 

 

 

 

 

 では続いて、アマゾンプライムのアドバンテージ。これはわりと単純で、

 

○家や外出先で見られるという利便性

○種類が多いというコンテンツの充実度

 

 などが挙げられるだろう。

 

 しかし、ここで私が主張したいのはこのような目に見えるアドバンテージではない。先に述べた、映画館の映像体験のような部分についてである。端的に言えば、私はこのような”映像体験”という部分においても、アマゾンプライムのが勝っている、と考えている。

 

 

 

 

 

 言うまでもなく、臨場感や没入感は現状映画のが上だ。ちかごろはホームシアターという設備を持っている人もいるし、PCで見る映像にはVRという新要素もあるにはあれど、コンテンツ自体が充実していないし(たぶんアマプラにもない。ないですよね?)、なにより映画1本をVR機器で視聴するのは身体的にキツい。単純に目が疲れる。やはり20分のAVくらいがジャストだ。こういうところから言っても、やはり臨場感・没入感については映画館に軍配があがるだろう。

 

 

 

 では、アマゾンプライムが持っている映像体験上の優位性とは何か。それは、”巻き戻し機能”である。

 

 ・・・いやわかってるから大丈夫。そりゃね。DVDでもブルーレイでもそうやんけっていうのはわかってるから。後で説明するから。黙って聞いてて。人の話に割り込んでも許されるのはルフィと真島五朗だけだから。なんならあいつらも許されてはいないから。聞け。

 

 

 

 アマゾンプライムで映画を視聴する場合、自由に巻き戻しが可能だ。見過ごしてしまった場面や、もう一度聞きたいセリフを再度視聴することができる。それも何度でも。アマゾンプライムの再生ツールにはデフォルトで画面上に巻き戻し/早送りボタンが用意されていることからも、このような使い方が前提とされていることがわかるだろう(ちなみにDMMの月額動画見放題プランにもある。ありがとうDMM。でも月額CDレンタルのインターフェースはクソだから早くなんとかしてくださいおねがい)。これは当然だが、映画館では絶対に不可能な機能だ。

 

 

 

 ここで、ある論を紹介しておきたい。映画監督の吉田喜重氏は著書「小津安二郎の反映画」の中で、「映画とは独占的なメディアである」としている。かいつまんで説明すると、

 

 

人間の眼は、ある対象を見るとき、そのものを個別的に見ているのではなく、その周囲の世界を含めた連続的な総体を見ている。

                ↓

つまり人間の視線は、周囲を泳ぐ視線(剰余の視線)に支えられて成り立っている。

                ↓

絵画や写真を見るとき、人間は自由に視線を泳がせることができるため、眼は本来の活動ができる。

                ↓

しかし、映画は時間的制約があるため、”剰余の視線”が排除されてしまう。

 

 

 以上がその論旨だ。乱暴に言えば、絵や写真は見る側が自由なスタンスで見れるけど、映画は「これを見ろ」「目を離すな」と強制してくるメディアだ、ということだ。

 

 

 

 映画はもとより「目を離さない」ことを前提として作られている。とすれば映画を見ているときの我々は、ある意味で「(視線をどう動かすかという)選択を奪われた状態」にあるといえる。我々は映画を見るとき、選択の自由を奪われているわけだ。

 

 

 

 その点、アマゾンプライムならば、このような枷をつけられることがない。我々は自由に巻き戻しができ、何度でも1つのシーンを見返すことができる。さらに言えば、「巻き戻しが可能だ」という事実がそこにあるだけで、我々の視線には「見逃してもいいか」という余裕が生まれる。実際に巻き戻しをしなくても、この機能が存在しているというだけで、我々は映画の持つ強制力を回避することができるのだ。

 

 映画館での視聴には視線選択の自由がない。アマゾンプライムにはそれがある。まずはこれを覚えておいてほしい。

 

 

 

 

 

 さて、ここでもう1つ紹介しておきたいのが、”消費社会”という概念だ。先述した”選択の自由を認めない”というのは、消費社会である現代に顕著な傾向である。

 

 

 現代が消費社会だというのは、経済学者でなくとも周知の事実だ。しかし、この語の意味は、経済学における意味と一般的に浸透している認識とで大きくくいちがっている。消費社会とは、モノを買うことによって成り立っている社会、という単純なものではない。ボードリヤールによれば、”消費”とは観念や記号を受け取ることだという。

 

 

 

 インスタにスタバで撮ったなんちゃらフラペチーノの写真をあげている女子大生を想像してみてほしい。想像しましたか?吐き気がしますね。あなたならどうします?殺しますか?私?私は受け入れますよ。こいつらと違ってね。キミのその弱いところも全部、受け止めてアゲルからサ・・・・・(あとで誰かフォトショでキラキラした感じのエフェクトつけといてください)

 

 ここで考えてほしいのだが、果たしてこのフラペチーノは何のために購入されたものだろうか。

 

 ここでの購入の動機は、おいしいから飲みたい、という欲求によるものではない。当然、栄養補給のためでもない。「この店に行った」という事実の誇示である。つまりこの場合の女子大生が受け取っているのは、フラペチーノというモノそのものではなく、店に行った事実、という観念なのだ。

 

 消費という行動の恐ろしさはここにある。モノの受け取りには限度がある。我々が一度に食べられる量は限界があるし、一度に何着もの上着を着ることはできない。しかし、観念の受け取りには限度がない。この意味で、消費は身体的限界によってストップすることがない。

 

 このような消費という行動の性質を逆手に取って展開されているのが現代の経済だ。新型iPhoneを購入するときに多くの人々が受け取っているのは、「新型を持っている俺カッケー」という観念それ自体であろう。べつにそれがダメとかじゃない。ダメとかじゃない(ほんとはちょっとダメだと思っている)が、いま世界の経済はそういう方向に動いているということだ。

 

 この意味で、現代は「モノが足りない」社会であると言うこともできる。我々は一見不自由なく暮らしているようだが、実は我々は常に消費を求めている。なぜなら、観念の消費には限度がないからだ。新しいものを手に入れれば、より新しいものを求めるようになる。可愛いものを手に入れれば、より可愛いものを求めるようになる。

 

 そんなときに、我々が持つ選択の幅はあまりにも少ない。そのような欲求を満たすもの(観念)を供給するのは常に生産者側だからだ。言い方は悪いが、現代に生きる人々は、消費社会によって常に枯渇し、次なる消費物(生産者の都合によって決められた新製品)を求めるように仕立て上げられている。我々は消費社会によって、何を受け取るかの選択権を奪われてしまっているのだ。

 

 

 

 

 

 話を映画に戻そう。

 

 映画館とアマゾンプライムには、視線選択の自由の有無という違いがあったことを思い出してほしい。これは、消費社会の話題にも通ずると私は考えている。

 

 

 

 映画館での我々は、視線選択の自由を奪われている。つまり、その映像の受け取り方を制限されてしまっているのだ。これは、先ほどの消費社会の構造とまったく同じではないだろうか?

 

 映画は本来的にそういうメディアであるのだから当然だ、という主張ももちろん正当だ。しかし、それならばむしろ、制限されるのが本来の形であった映画という芸術に、さらに視線の自由化という要素を付け加えたアマゾンプライムは、映画という芸術の新たな形を提示したと言えるだろう。そしてこれは、選択権を封ずるというきわめて消費社会的なパースペクティヴから映画を解放したとも言えるのではないだろうか。

 

 

 

 一見非常に消費社会的に見えるアマゾンプライムというサービスは、もしかしたら映画を消費社会の棺桶から解放する、救世主的な試みなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 これで話は終わりなんですが、今読み返したらなんかDVDとの違いはあとで説明するとか言ってましたね。何書こうと思ったか忘れました。はは、メンゴメンゴ。まあ各自適当に考えといてください。じゃ私は忙しいんで。もう話しかけないでください。あ、女子大生の子はいいよ。DM待ってま~す(笑)