硬直1000F

3日でやめます

道徳は、レジ袋によって試される

 

 

 

 人間は、生活水準を上げることは簡単にできるが、下げることは難しいらしい。原付を手に入れると、自転車だけの生活には戻れない。追いだき機能のある風呂に慣れてしまうと、その機能のない風呂では満足できない。一度VRのAVで抜いてしまうと、もう普通の画面で見るAVでは抜けない(そんなことはない。なぜなら「○○の凄テクに耐えたら~~」シリーズはVRにはないから(あれがVRになったらたとえ1本10000円でも絶対に買うのでDMMさんよろしくおねがいします)(できれば湊莉久))。

 

 

 

 そういった意味で、ある商品の値上げだったり、以前は無料だったものが有料になるというのは、初期の反発が必要以上に大きくなる。増税のときもそうだったし、最近ではゴミが排出量によって有料化するような地域もあるようだ。かくいう私も、Pixivの「人気順に検索」が有料化したときには面食らった。(名誉のために言っておくが、私はR-18作品だけを目的にPixivを利用しているわけではない。「どうせエロ画像ばっかり探してるんでしょ」と思われた諸氏は謝ってほしい。謝った上でお詫びとして、「仰け反り絶頂」のタグが入っている作品で一番いいやつのアドレスを教えてほしい。なるはやで。)

 

 

 

 

 

 さて、そんな有料化の流れの中で、かなり世間を賑わせたのが、レジ袋の有料化だ。最近ではスーパーでレジ袋を無償提供しているところはほとんどない。だいたい5円くらい払わされる。この風潮、いったいいつからだ?と思って軽く調べてみたら、だいたい2007年ごろから段階的に導入されていったらしい。

 

 

 

 そのような風潮とはうって変わって、コンビニ業界はかたくなにレジ袋を有料化しない。そりゃまあ有料化されたら困るのでこのままでいいのだが、一方では有料、一方では無料というのもいびつな状況だという気がする。

 

 「エコバッグを持参させる意識づけのため必要」とか「レジ袋くらい大したエコにならない」とか「あんなもんどうせスーパーが儲けたいだけ」とかそういう系の議論もいろいろあるだろうが、今回はもう少し別の切り口からこの問題を考えてみたい。

 

 

 

 

 

1. レジ袋の示唆する道徳性

 

 先日ファミリー〇ートに行ったら、そのレジ袋にこんなことが書かれていた。

 

 

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▲バーべーキューしてるときに独りで撮ってたので周囲の人が何?みたいな顔で見てたけど逆に怪しすぎて誰も話しかけてこなかった(バーベキューをBBQと表記するのに若干の抵抗あり(知らん))

 

 

 ここには、「レジ袋がご不要な方はお申しつけください」とある。え、今言われても。もうもらっちゃってるし。開いちゃってるし。しっかりファミ〇プレミアムのプリン(めちゃくちゃうまい)とか入れちゃってるし。そもそもプリン買ったのにスプーン入ってねえじゃねえか。創立30周年!じゃねえんだよ。4つのキャンパスはわかったからからスプーンをよこせスプーンを。

 

 この「レジ袋がご不要な方はお申しつけください」という文言、こういった意味では、初めてファミ〇でレジ袋をもらった人にとっては意味をなさない。これを目にするのは当然、レジ袋をもらった後のことだからだ。

 

 つまりこの文言は、”今後”について言及しているものだということがわかる。「次からは、レジ袋がいらなかったら断ってね」という伝達をしているわけである。しかもご丁寧に「資源を大切に」とか余計なことを言う変な鳥まで描かれているため、この袋は明らかに断ることを推奨しているといえる。

 

 

 

 日本に住む多くの人間は、ファリー〇ートで2回以上買い物をしたことがあるはずだ。それならば、特殊な場合(みんなの分も買い出ししているとか)を除き、ファミ〇のレジ袋を持っている時点で、その人は「レジ袋の受け取りを拒否しない環境破壊人間」というレッテルを貼られることになるのだ。

 

 まずこの段階で、我々は第一次的に道徳を試される。我々はレジ袋の記述によって、レジ袋を断ることを強いられるのだ。さもなくば環境破壊者とみなされ、その姿は忌み嫌われ、街を歩けば石を投げられ、絵描きに拾われて、彼が遺した最後の手紙を恋人に届けてアルファベットを1つ書き加えてもらうのだ。オーイェーンンーフーン、オオーーン

 

 

 

 

 

2. 道徳的価値と市場的価値

 

 イスラエルで行われた、遅刻にまつわるある社会実験がある。

 

socius101.com

 リンクを貼っておくので詳しくは見ておいてほしいのだが、簡潔に説明すると、

 

① 保育園の集団をA・Bグループに分ける

                                          ↓

② Aグループの保育園で、親がお迎えに遅れた場合の罰金を設定(300円くらい)

                                          ↓

③ Bグループと比較

                                          ↓

④ Aグループで再び罰金をなくす

                                          ↓

⑤ Bグループと比較

 

 

 という流れの実験だ。ちなみに、もちろん最初の保育園の集団で遅刻数に有意な差はなかった。

 

 

 

 結果はどうなったかというと、③の比較の段階で、Aグループの遅刻数は約2倍に増えた。つまり、罰金を科されることによって遅刻が増えたわけだ。そして⑤の段階、また罰金を科さなくなった状態でも、増えた遅刻数は変わらなかったという。

 

 これは非常に興味深い結果だ。

 

 この実験では、結果に対する分析も行われている。それによれば、罰金を科したことによって遅刻が増えた理由は、”道徳”のルールで制御されていたフィールドに、”市場”というルールを持ち込んでしまったからだという。「遅刻をしてはならない」という”道徳的”ルールに対して親は「こういうルールがあるんだから守らなきゃ・・・」という意識になる一方で、「遅刻をしたら罰金」という”市場的”ルールに対しては「罰金を払ったら遅刻してもいいんだ!」と考えてしまうわけだ。

 

 

 

 さて、件のレジ袋であるが、最初に述べたスーパーとファミ〇の比較をした場合、この現象と同様のことが起こっていると考えられる。

 

 「資源を大切にするため、レジ袋を断ろう!」は、”道徳的”ルールである。レジ袋は無料なのだから、断っても自分にメリットはない。しかし、「レジ袋を断ろう!欲しけりゃ5円払え」は、”市場的”ルールだ。だから、5円払えばレジ袋を受け取っても良いんだ、と読み替えることもできる。

 

 

 

 そういう意味では、エコバッグを持っていない人に対し、スーパーの体制のほうが優しいともいえるだろう。なぜなら、”逃げ道”があるからだ。レジ袋に代金を課すシステムには、「私は5円払っているんだからこのレジ袋を受け取る権利がありますよ」という免罪符が用意されている。

 

 これに対し、ファミ〇はレジ袋を受け取る派に厳しい。課金による逃げ道がなく、道徳的なルールによってレジ袋を断ることを要求してくる。このレジ袋を断らなかった者は、魔女裁判にかけられ、火刑に処され、死にゆく中ですべての人類を呪うのだ。ドリフターズジャンヌダルクだ。ワオ!とか言ってる場合じゃないぞナンジョルノ。

 

 

 

 

 

 我々はこのレジ袋に対する振る舞いを、もう一度考えなければならないのかもしれない。第二、第三のジャンヌダルクを生まないためにも。もうあのオルレアンの悲劇を繰り返してはならない。(そういう話だったか?)

 

 

 

 そしてもう一つ、市場経済的なものの見方も改めなければならないだろう。市場的価値のみによって利益を求めるのではなく、カネで解決できない道徳的な部分にこそ、次の世界のソリューションが埋まっているのかもしれない。みなさんもこのことを心に置いて、日々を過ごしてほしい。以上だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【回想シーン】

 

・・・なぜなら「○○の凄テクに耐えたら~~」シリーズはVRにはないから(あれがVRになったらたとえ1本10000円でも絶対に買うのでDMMさんよろしくおねがいします)(できれば湊莉久))・・・