硬直1000F

3日でやめます

あなたのツイートをバズらせる、たった1つの方法

 

 

  ライフハックメディアみたいなタイトルで失礼します。こんにちは、ハブ石井です。(今思い返してみるとこんな感じであいさつから書き出したことって今までなかった気がするが、やっぱり今後はしていこうと思います。あいさつと言えば私、みたいなところあるし。AV見る前も必ず一礼とかしてますからね。メーカーの本社のある方角に向かって。(本社の方角はさすがに嘘だが、AV見る前に画面に一礼すること自体はわりとマジでたまにある(理由は自分でもわからんけどたぶん感受性が豊かすぎるんだと思う)))

 

 

 

 みなさんお使いのツイッターAPIの変更に伴って寿命を迎えるかと思われたが、延期によってその宿命を免れたことは記憶に新しい。このブログでは、しばしばツイッターの話題を取り沙汰している。炎上を回避する、だったり、クソリプって何なのか、だったり。今回は昨今よく耳にするようになった、”バズる”という現象に焦点を当てていきたい。

 

 

 

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 そもそも”バズる”とは、ある事項がネット上(主にSNS上)で突如脚光を浴びることを言う。最近だと安倍首相が来るからエアコンついたとかストローマン論法とかあのへんだろうか。RTされまくって様々の議論を呼んだり、しょうもないクソリプが返ってきたりという様相を呈している。

 

 こういった状況は、発信者がよほどのインフルエンサーでない限り、意図的に引き起こすことはなかなか難しい、というのが一般的な認識だろう。本人も他者も、(意図的な炎上事案を除き)発信する時点ではそれがバズるとは思っていない。バズはあくまで偶発的で、遡及的だ。だから、「お前有名人じゃんwww」という定型文化されたリプライがついたり、「バズったので宣伝します!」という後付けのコマーシャルで彩られたりするのだ。(ところでこんなものはもう散々言われ尽くしていることだと思うが、バズったから宣伝するって何?何の努力もしてないのに宣伝できちゃうのずるくね?俺も何の努力もせずにブログの宣伝したい!(シンプル嫉妬))

 

 しかし、このようなツイートには確実に傾向がある。今回は実際にバズったツイートから、その要素を検証してみたい。

 

 

 

 さて、まず重要になるのは、「どんなツイートがバズりやすいのか」ということである。私はそのようなツイートの条件として、大きく3つの要素を含んでいると考える。

 

① 母数の大きい集団に関係のある問題提起

② その問題に対する一面的な意見

③ 意見の脆弱性(ツッコむ余地)

 
 他にも漫画作品とか、子どもの珍回答とか、テレビ画面をキャプっただけのやつ(だいたいTOKIO城島)とかもあるが、「議論を生み出す」という部分にフォーカスすると上記のような特徴になると思われる。

 

 

 

 例を挙げて考察したい。

 

 まず以下のツイート画像を見てほしい。これはちょうど最近バズっていたツイートである。

 


例1

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例2

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 画像の中に、上記の①、②について注釈しておいた。まず①ついて、例1では「日本人の差別」という、誰しも関係のある話題をフィーチャーしている。同様に例2でも、剛力彩芽という誰でも知っている女優について、それに対するネット民の反応と、見る人全員に関係がありそうな話題になっている。

 

 続いて②について。その問題提起に対する発信者なりの意見(ざっくり言えば賛成か反対か)が書かれていることがその要件だ。例1では「日本人は無自覚な差別を悪とするか」という命題に”反対”という立場から意見を述べている。例2では、剛力彩芽のような振る舞いに”賛成”、岡村隆史のような男性芸能人の苦言・ネット民の苦言に”反対”という立場からの意見だ。このように、問題提起に対してある視座からの意見が書かれていることが2つ目の要件である。

 

 ③について。これは上記の画像中には注釈を入れづらかったので、この場で説明したい。上記2つの例にある意見には、いずれも脆弱性がある。簡単に言えば、ツッコミどころがあるのだ。ただし、そのツッコミは決して論理的客観性がなくてもよい。例えば①の例なら、大局を見れば概ね真理をとらえた意見だろうと思われるものの、「いやいや、ウチの周囲ではそれも差別って言ってるよ。例えば~」とニッチな話に持っていくことができる。同様に②の例でも、「女性芸能人なんだからそのへん気を遣うのは当たり前」「ファンの気持ちを考えろ」などという反論が巻き起こることは目に見える。

 

 このような反論は、どんな意見に対してでも起こるものだし、非常に論理的なものから著しく客観性を欠いたものまで様々だ。でもそれでいいのだ。とにかく「反論が起こる」ことに意義があるどうせツイッター上での議論なんて99%有意義なものにならないんだから、反論の質なんてどうだっていいのだ。みんなでワイワイガヤガヤ、盛り上がれさえすればそれでいい。

 

 

 

 上記のような条件を考えると、バズるツイートはその性質として、ある意味”ディベート的”であるといえる。ある問題に対して、賛否いずれかの立場で立論をおこない、相手の反駁に備える形。そのように考えると、バズるツイートの3条件に加え、もう1つ裏の条件が見えてきそうだ。

 

⓪ 問題提起の内容が「答えの出ない」ものであること

 

 ディベートにおいては、その主題は基本的に答えの出ない問い(死刑制度の是非、尊厳死の是非、遺伝子組み換え食品の是非など)だ。こんなものはもうこの世にはごまんとある。なんだったら、答えの出る問いのほうが圧倒的に少ないだろう。確立された真理なんて、1+1=2であるということと、途中で女優の服を全部脱がせるコスプレAVはゴミということだけだ。(あれはもう本当にゴミだ

 

 

 

 

 

 さて、ここまで”バズるツイートの特徴”について述べてきた。それは普遍性であり、一面性であり、脆弱性であった。と、ここで私は思うのだ。もしかしたら人類の意見って、対多人数(10000人とか以上)用にはできていないんじゃないか?と。

 

 

 

 ツイッターでは日夜、問題提起のツイートがバズり、それに対して多くの人が自分なりの意見を表明している。そのこと自体は別にいい。問題意識を持つことは大事だし、それについて(誰かの意見に引っ張られる形でなく)自分の意見を持つこと・考えることは、人間たる上で重要なことのはずだ。

 

 しかし、なんというか、ツイッター上での意見表明は、コンプライアンスがきつすぎやしないだろうか。どんな素晴らしい意見も、絶対に反論が起こる。となれば言えることは1つ。そもそも我々は10000人とかに向けて意見を発信するようなシステムになっていないのだ。

 

 人類は長い間、そんな人数を相手にして来なかった。わずか2000年前に人はまだ、村を作って50人に満たないコミュニティで暮らしていたのだ。活版印刷で書物を広く流布できるようになったのなんて400年前。ましてやインターネット上のコミュニケーションなど、生まれて40年程度なのだ。我々の遺伝子はまだこの変化に対応できていない

 

 少人数のコミュニティから多人数のコミュニティに移ったことで、我々は”意見を変えることが許されなく”なった。50人の村なら「昨日と言ってることがちがうやん。まあええか。〇〇もええとこあるしな。許したろ。」となっていたのが、10000人ではこうはいかない。そこでは、発信者の人間性が透けて見えず、意見のみが人間性の判断材料になってしまう。やれ一貫性を持てとか、論破したったwwwとか、新たな反論を呼んでしまう。昨今では”手のひらドリル”という単語も生まれているように、このような”意見の変化”に厳しい情勢になっている。(ところで“手のひらドリル”という単語を初めて聞いたときイメージしたのは、新手のSFエロテクニックか?ということだった。前立腺ぱーんち!みたいなやつ(うちは「おかあさんといっしょ」レベルで子どもに見せても大丈夫な清廉潔白なブログを目指しており、エロ画像を載せるような低俗なブログではないので、知らない人は各自でググってください(ちなみに私はこういうSFエロシチュエーションは男女問わず苦痛を伴う系が多いため好きではない)))

 

 我々の遺伝子は、文明の発展にまだ追いつけていない。人間はまだ、「意見を変えても許される範囲」以上の人間を相手にするようにできていないのだ。

 

 

 

 

 

 最後にことわっておくが、私は決して、ツイッターで意見を表明するなということを言いたいわけではない。これだけ気軽に自己を発信できるツールというのは、非常に革新的だし、間違いなく面白い状況であるのは間違いない。ただ、「そもそもツイッターでの意見表明には生物的な無理があるんだよ」ということを念頭に置いて、発信するときも受信するときも、みんな寛容な目で利用していけたらいいな、と思っているだけである。実社会でもSNS上でも、もう少しお互いに、譲り、許し合える心をもって暮らしたいものだ。でもコスプレを途中で脱がすのだけは絶対に許さんからなマジで