硬直1000F

3日でやめます

破滅への輪舞曲(ロンド)と、腐女子の中に眠る武士道と。

 

※ 申し訳御座いませんが、本記事は某有名テニスプレイヤーとは一切関係が御座いません。ご了承の上、よろしければご一読ください。

 

 

 

 

 

 流行語大賞のノミネートが発表された。大迫半端ないって、とか、TikTokとか、なるほどなあというものが揃っている。しかしTikTokがこんなに流行るとは思いもしなかった。「どうせすぐにオッサンがミニスカで踊る女子高生を見てニヤけるためだけのアプリになるんだろうな」などと思いながらミニスカで踊る女子高生を見てニヤけていたのだが、まさかこんなに覇権を得るとは。顔とかいいから脚を映せ脚を。


 昨年度の大賞は「インスタ映え」であった。最近では単純に「ばえる」とも用いられる。このような単純な動詞が新語になるのは比較的珍しい。そういう意味では、「病む」というのも最近になって新たな用法が出てきた言葉のひとつだ。日常的に病みツイートも見かけるようになった。とはいえタイムラインの年齢層も高くなってきたため、出てくる言葉はめっきり「死にたい」ではなく「酒飲みたい」だ。酒に逃げるという手法は、若年層では思いつかない。でも男性諸君は本当は「酒飲みたい」んじゃなくて「セックスしたい」はずだ。もっと自分に正直に病んでほしい。

 

 

 

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 「病む」と元はよく似た意味の言葉で、「こじらせる」というものがある。昨今、とくにオタク界隈で用いられる用語としての意味は、あるものに没頭し、たいそう熱をあげる様子を指すようだ。


 しかしこの「こじらせる」という語、元は、物事を複雑にしてしまうだとか、病気がひどくなるというようなマイナス方面の意味を含んでいる。本来、好きなものに没頭するのは悪いことではないように思える。なのに、なぜこのような否定的な語が用いられているのだろうか?

 

 

 

 「こじらせる」を悪い意味として捉えることは、使っている当事者も気づいているはずである。つまり、「自分はこじらせたオタクだ」と公言する人は、その意識の中に「自身が悪い方向に向かっている自覚」を内包しているといえる。

 

 これと似た感覚の表現として、「沼にはまる」というものもある。出自は不明だが、主に女性オタク(いちいち女性オタクと呼ぶのは面倒なので腐女子と呼ぶことにする。厳密には意味が違うと思うのですがあしからず。)の界隈で用いられるというイメージだ。一時期は、沼にはまってしまう腐女子の心理を描いたものがツイッター上で流行していた。(白ハゲ漫画とかいって揶揄されていたが、私は好きです。(好きだと言っておけばセックスできますかね(最近「実はオタク女子のが本性はエロい!」みたいなAVを見たのでかなり腐女子のポイントが上がっている(知らん))))

 

 実は日本語でこのような意味をあらわす言葉は、押し並べてマイナスな意味を含んでいる。説明として用いた「没頭する」はもともと頭を切り落とす意味であるし、「ハマる」とは身動きが取れなくなることだ。「うつつを抜かす」のうつつは現実のことであるし、「憂き身をやつす」のやつすとは痩せ細る意味だ。「心を奪われる」、「病みつきになる」に至ってはもはや言を俟たない。

 

 これらの言葉に共通するのは、自身が”破滅”に向かっていく感覚である。ある対象に夢中になることは、自身を破滅へと導くことであるという考え。この感性は、日本人に独特のものである気がする。あるいは日本特有のものではないにしろ、三島由紀夫金閣寺などに代表されるような、憧れと破滅が入り交じった感情は、やはり日本人の強く意識する部分なのではないか。

 

 

 

 さて、先ほどの2語の話に戻ろう。私は上記のさまざまな語の中でも、群を抜いて”破滅”に近いのがこの2語であるように思える。それは、その対象が手の届かない存在であることが多いからだ。

 

 趣味に「ハマる」とき、身近な異性に「心を奪われる」とき、我々は自身を破滅に向かっていると定義する。とはいえ、趣味はすでに手が届いているものであるし、身近な異性ならばある程度手が届く距離にいるはずだ。

 

 しかし、アイドルや俳優、あるいは二次元キャラなど、確実に手が届かない存在に我々が没頭するとき、その身はより破滅に近づく。はじめから見返りなど期待できない、その中で、自分にとっての神性をもつ、高貴な偶像に熱をかたむける――「こじらせる」「沼にはまる」には、そんな趣がある。公式のグッズを買い漁りながら、「もっと貢がせろ」と嘯くオタクに、その影が見て取れはしないだろうか。(もちろん浪費それ自体が悪というわけではない。むしろファンならある程度は還元すべきだとは思っている。高校時代の友人Aくんなどは補習をサボって某AV女優の〇井そら握手会に行き、握手券として購入させられたDVDを帰り際に3軒隣の中古エロショップで売るという荒技を決めていたが、そのような態度もどうかと思う。私は未だにそのときのDVDは大切にとってある。

 

 そして、この2語を比較したとき、「沼にはまる」のほうがより破滅に近いことも考えられる。「こじらせる」とはあくまで内的要因による破滅であるが、「沼」のほうは外的要因である。自己の身体が他者に呑まれていく感覚。このあたりは、「女性は感動の要因を自己の管理外に置くのでは」と過去の記事で述べたこともある。

 

 偶像を崇拝するとき、もしかしたら男性よりも女性の方が、自己の身の破滅をより強く意識するのかもしれない

 

 

 

 ところで、日本には古来から、このような”破滅”の美徳がある。武士道である。

 

 誤解のないように言っておくが、武士道とは決して死を至上とするものではない。武士の精神のひとつの発現が死という形なだけであり、そこに帰結することのみが武士の理想ではありえない。だとしたら武士になった瞬間に全員自害せねばならなくなる。
 

 武士にとっての死とは、自己意識を殺すことであるという説がある。自己の利害を度外視すること=自己の死 によって、最良の判断が得られるという考えだ。つまり武士とは、死を想うことにより生を享受する者、いわば最も生を渇望する者であるともいえる。だから、武士の本質は決して「死にたい」ではない。そこにあるのは飽くなき生への執着、いわば「セックスしたい」なのだ。(?)

 

 

 

 オタク・腐女子は自身を「死に向かう存在だ」と定義しながら、「生を享受する存在だ」とも自覚している。オタク・腐女子にとって何かに没頭することは、最も生を実感できる瞬間であるからだ。だからこそその偶像を崇拝し、”生きがい”として信奉するのだ。その意味では、オタクや腐女子こそ、現代に生きる武士道の継承者なのではないだろうか。中でもより強く”破滅”を意識する腐女子の内に、この感性は息づいているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 「武士道と云ふは、死ぬ事と見つけたり」で有名な書、”葉隠”の中には、武士のマナーに関する内容も多く記述されているらしい。へえーと思って調べていたら、目を疑う記述もあった。

 

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 マジで腐女子のルーツじゃん。