硬直1000F

3日でやめます

RTしまくり人間は中華街のハトを見習え

 

 先日、横浜を訪れた。中華街付近で1泊した翌日の朝、ある光景を目にした。

 

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早朝の中華街でゴミを撮影しながらニタニタしている不審者が私だ

 

 ゴミを漁る鳥、我々のイメージではそれは十中八九カラスであろう。それに対しハトといえば、平和の象徴、無害な鳥という印象である。しかし都会(しかも中国ナイズされた都会)のハトは違う。普通にゴミとか漁る。おそらくゴミどころか人間の食べ物も盗っているだろうし、わからんけど人の4・5人は殺しているんじゃなかろうか。上の写真も、撮った直後にハトがめちゃくちゃガンつけてきた(ような気がした)のでダッシュで逃げたし。

 

 

 

 このハトたちは都会を生きる厳しさも知っているし、日本で生きる中国人のたくましさも持っている。その点で、彼らは他地域のハトたちとは違う独特の生物だ。そしてこのような特徴の形成には、彼らが生息する中華街という環境が影響しているといえる。

 

 このように、ある地域や集団、またそこに住む人々(鳩々)が持つ独自の特徴は、アウラと呼ばれる。つまりこのハトたちは、中華街的アウラを持った存在、ということになる。

 

 

  

 このアウラという概念は、他のさまざまな場面でも見受けられる。深夜のドンキホーテにいる若者はある一定のアウラを持っているし、格闘ゲーマーの諸兄からすれば、ガンダムVSプレイヤーに一定のアウラが存在するのはわかるだろう。男性諸氏であればソフトオンデマンドプレステージムーディーズの作品にそれぞれ独自のアウラが存していることも明白に感じ取れるはずだ。ちなみに私は上記の中ではムーディーズアウラが最も好きだ。とくに「最高のオナニーのために」シリーズのアウラは最高だ。そら私の小鳩もピジョンくらいになるってもんだ。あ~~~~~いや、ごめん、これはよくないな。今のはナシでお願いしたい。

 


 中華街のハトたちは、中華街というアウラに所属する集団であるといえる。その点で、彼らは”所属欲求”に従ってこの集団を形成していることになる。

 

 所属欲求とは、ある集団に所属していることにより自己の欲求が満たせる状態のことにある。歴史的に言えば愛国心を煽る国家はいずれも所属欲求をうまく操っていたものであるし、日本でも少し前の時代までは、村社会への所属、学校への所属、会社への所属などが人々の社会的欲求を満たしていた。

 

 これに対し、いわゆる”承認欲求”は集団的なものではなく、個人的なものである。個人として注目されたい、誰かに認められたいと思うもの。これについてはもうだいたいみなさんご存知だと思うので特に解説しない。

 

 この2つの欲求に関して、以下のブログが非常に良い着眼点を持っているため引用したい。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 といってもわざわざ読むのはダルい、とお思いの方も多いはずなので、今回の記事に関係ありそうな部分の要点をまとめる。

 

① 承認欲求と所属欲求は同ランクの欲求だよ。
② 承認欲求や所属欲求を持つことは悪いことではなくむしろ自然で、モチベーション源になる大切なものだよ。
③ 所属欲求は近年のSNSではRTやいいねの形で簡単に満たすことができるよ。(RTによってその界隈に”所属”できたと思えるから)

 

 

 さて、ここで私が話題にしたいのは、たまにツイッターで目にする「RTしまくり人間」のことだ。具体的に言うと、自分のツイートよりもRTのほうが圧倒的に多いというような人だ。

 

 RTという行為に必ず所属欲求が付きまとう、というわけではない(あるいは、付きまとうとしてもかなり少量であることがほとんどだ)。また、「ある記事に対する自分の意見を述べるため」のRTということも多くあるだろう。これらは、自分の意見をしっかり持った上でのRTであるといえよう。

 

 しかし、自分のツイートをほぼせず、RTばかりしている人間にとってはどうだろう。自己という立脚点が希薄なまま、自分の気になる情報だったり、賛同できる意見だったりをRTしていく様は、実に”所属欲求的”行為だと思う。

 

 情報のメモ程度のつもりかも知れないが、ふぁぼ(余談だが個人的にツイッターのお気に入りのことをいいねとは言いたくないし、お気に入りだとなんか他のツールともかぶるので、ふぁぼという呼称が気に入っている(唐突な自分語り))ではなくわざわざRTしているということは、「自分はそのクラスタ・界隈に属していますよ」とフォロワーにアピールする側面があるはずで、それは意識的であろうとなかろうと、所属欲求の発露として見て間違いない。(ツイッター公式の方針によって、ふぁぼした物も他人のTLに表示されるようになったことも、このような所属欲求を後押ししていると考えられる。いまや問題はRTだけではないのだ。)

 

 

 

 一次的な結論を出そう。「RTしまくり人間」は、その行為によって自分の所属欲求を満たしているようで、実はどこにも所属できていないのである。

 

 RTによる所属は、実に刹那的である。今、この一瞬に、自分をあるクラスタに所属させるために行う。あるいは、継続的にあるクラスタであることをほのめかすために行う。それがあまりに多すぎ、自己の発言をはるかに凌駕している状態は、無数の集団と希薄な関係を持ったまま進む、いわば傀儡のようなものだ。

 

 あるSM嬢(Mのほう)がインタビューで語っていたが、SMの主導権はS側にあるように見えて、実は全てM側が掌握しているのだそうだ。先に述べたRTしまくり人間たちは、自ら進んでRTをしているようで、実はRTに操られているにすぎない。ちょうど場を支配しているように見えるS男が、実はM嬢に操られているのと同じだ。(同じか?)


 

 では、RTしまくり人間はどうやって自己の所属を”修復”出来うるのだろうか。そのために必要なものが、冒頭に述べたアウラ」であると私は思う。

 

 RTによって所属欲求を一時的に満たすことは容易だ。しかし、そこには圧倒的に”身体的体験”が伴わない。身体的体験を経て、集団が持つ独自のアウラをその身に感じることで、はじめてその集団への所属を体感できることになるのではなかろうか。

 

 こうした経験をすることは、その集団を吟味することにもつながる。あるニュースの真偽もわからないままでは、賛成・反対の立場へ安易に所属するというのはかなりリスキーだからだ。

 

 ここでいう”身体的体験”というのは、なにも実際に現地へ足を運べ、というわけではない。あるニュースについて真偽をしっかり調べたり、作品を最後まで鑑賞したりというのも含まれる。もちろん対象がスポーツだったり趣味だったりの場合は、実際にやってみることも重要だと思うが。

 

 身を持ってその集団のアウラを感じること。アドホックではない、自分の意見を持って集団に立ち入ること。その大切さを、私は中華街のハトを見て感じた。無数のRTに振り回されている人は、是非とも彼らを見習ってほしい。

 

 

 

 

 

 ふぁぼに比べRTはハードルが高いというのは共通の認識だろう。RTとは所属を表明する行為であるからだ。だからこそ我々は、RTによる所属欲求の充足を責めてはならない。ただ、その限度を見誤り、自己のアイデンティティをもないまぜにする、RTのオーバードースにだけは気をつけたいものだ。

 

 でもこの記事はRTしてくれよな。じゃ。