硬直1000F

3日でやめます

藤原竜也としてのジャガイモ、あるいはメンマ

 

 

 社会人になってから、太ったり痩せたりを繰り返している。とはいえ適切なダイエット知識があるわけではなく、なんとなく自己流でやっているだけなので、炭水化物をとにかく食べないとかいう縄文時代ばりの野蛮な方法に落ち着く。もうこんなの専門家からしたら時代遅れも遅れなのかもしれないが、これしか知らないんだからしょうがない。ということで今日も縄文時代の食で一日を過ごしている。

 

 

 

 

 

 炭水化物をあまり食べないように、そんな月並みなダイエットを心がけていると気づくことがある。芋の存在である。

 

 炭水化物といえば米やパン、パスタ等の麺類などがメジャーであるが、芋類もこれに該当する。該当するくせに、彼らはまるで、自らが野菜であるかのように振る舞い、虎視眈々とこちらの胃に潜り込もうとしてくる。その芋類の中でも、特にジャガイモ。ヤツは危険だ。恐るべきは、その社交性の高さである。彼はあらゆる料理、あらゆる組み合わせで、そのポテンシャルをいかんなく発揮してくるのだ。

 

 だが、ジャガイモについては同時にこんなことも思う。彼がほんとうに活躍するのは、実は料理においての”主役”となるときだけなのではないか?と。

 

 


f:id:dr0ptheh8:20190801170747j:image

 

 

 ジャガイモ料理は数多い。そしてはっきりとジャガイモが主役になる料理において、彼は遺憾なく力を発揮する。揚げればフライドポテト、コロッケ、ハッシュドポテト、ポテトチップス。つぶしてポテトサラダやポテトグラタン。素材を活かした形であれば、じゃがバターやジャーマンポテトなんかもいい。とにかくジャガイモは、主役を務めるときのポテンシャルが異様に高い。

 

 しかし、考えてみてほしい。ジャガイモがいくら他の食材とも親和性が高いとはいえ、”脇役”となったときにこれほどまでにポテンシャルを発揮するだろうか?私はノーであると考える。カレーのジャガイモはないほうがいい(個人的見解)し、煮物に入っているジャガイモも邪魔(個人的見解)だ。スープやおでんに混入しているものなどに至っては言うもさらなり。そもそも、「ジャガイモが脇役になる料理は何か」と問われて、10品目の例を挙げられる読者諸君はいるだろうか?おそらくいないと思う。このような例を考えた際、さほど数多く候補が挙げられないというのも、彼が脇役としては不適当であることの証左なのである。

 

 

 

 もう1つ、私は密かに、ジャガイモのエコロジーと状況を同じくする食材の存在を感じている。それがメンマである。この件についても読者のみなさまに問いたい。メンマってそのまま食べた方がおいしくない?

 

 

 

 ラーメンに入っているメンマ。あれを必要としている人間は、どれだけいるのだろう?少なくとも私が聞いた知人は全員口を揃えていらないと言っている。本当に不要だと思う。FANZA(旧DMM)のアダルト動画のレビュー欄には、”※作品の本編に関するネタバレを含みます”という注意書きを付すことができるのだが、あの機能と同じくらい不要だ。(なんなんだAVのストーリーに関するネタバレって。そんな部分で楽しんでいる人間が存在するのか。「こんな冴えない男がセックスできるわけが・・・ん?まさかこの女性とセックスすることになるのか!?うおおすごい、これは大どんでん返しだ!!」とか言ってるんだろうか。そりゃセックスするだろ。AVだぞ。)

 

 

 

 ラーメンのメンマが不要だとしたとき、メンマの存在意義はなくなるのかというと、そうではない。メンマは単体で食べてじゅうぶんおいしいのである。そのままで食べたことのない諸氏は、是非コンビニ等で”おつまみメンマ”みたいなやつを買ってみてほしい。ラーメンの上ではあれだけ邪魔だったメンマが、みちがえるように輝いているのに気づくはずだ。

 

 この意味で、メンマはポジションをジャガイモと同じくしている。ジャガイモほど顕著ではないものの、彼は”主役でのみ輝く”存在なのである。

 

 

 

 

 

 人間にも“主役でのみ輝く”役者がいる。藤原竜也だ。映画をほとんど見ない私でも、その主演作品における名演技は知っている。デスノートカイジなどでの熱演がたいへんな知名度をもっていることからも、彼が日本人俳優として替えの効かない人物であることを物語っているだろう。作品の中で誇る圧倒的な存在感が彼の魅力である。

 

 しかし、たとえば藤原竜也が脇役を務める作品を考えてみるとどうだろう。そのような作品が既にあるのかどうか私は知らないが、おそらく数多く例を挙げられるものではないはずだ。あるいはこれからそのような作品が生み出されたとして、恐らく作品として上手くまとめ上げるのは難しいのではないか。想像してみてほしい、主役の坂口健太郎の背後に弁護士役の藤原竜也がいたら。主役の佐藤健の横に藤原竜也がいたら。絶対そっち見ちゃうはずだ。なにせ、藤原竜也は存在感がありすぎて、脇役の器に収まらないのだ。

 

 とすれば、ジャガイモやメンマはこのような”藤原竜也性”をもった食品であるといえる。三者に共通するのは、「脇役としては微妙だが、主役としては一級品」という性質である。

 

 

 

 さて、「舞台の登場人物の感情は、観客によって規定される」というのは劇作家の平田オリザ氏の言だ。つまり、演劇の中に登場する人物たちは、感情を表現しているわけではなく、あくまで動作と発言を行っているだけで、そこに感情を見いだすのはあくまで観客側である、と述べているわけである。

 

 この意味で、演劇は実にインタラクティブな文化だ。演劇を見た観客はその登場人物の感情を想像する。もちろん演技が秀逸な役者であれば、感情の想像はしやすく、感銘を受けた観客は役者・作品を賛美する。それがフィードバックとなり、秀逸な役者はさらに輝ける舞台で演技をする・・・そうした双方向的な社会の動きの中で、藤原竜也という主演男優は形成されてきたのだろう。

 

 とすれば、藤原竜也を主演にキャスティングしてきたのは映画監督ではない。我々観客だ。役者のあり方は、観客によって決められるのだ。

 

 

 

 それならば、ジャガイモやメンマも同じだ。彼らの舞台を規定するのは料理人ではない。食べる我々だ。我々はもっと声高に、強く主張をしないといけない。「彼らは、脇役を演じるべきではない」と。そうしたフィードバックがないまま、彼らの役者人生は進んできたのだ。だからカレーのジャガイモとか、ラーメンのメンマとかが代表作みたいになってしまい、それに気をよくした彼らの所属事務所が「脇役もいけますよ!」などと各局に売り込むのだ。ある程度なんでもできるジャガイモはそれでもいいが、メンマはかわいそうだ。もう彼は主役一本でいくべきなのだ。メンマはいいかげん事務所を移籍したほうがいい。何の話だこれ。誰か助けてくれ。

 

 

 

 

 

 これで話は終わりだ。これを見ているジャガイモ・メンマ関係者はもっと主役として売り出すようにしてほしい。あとFANZA関係者はあの機能を今すぐ消せ。以上だ。