硬直1000F

3日でやめます

異世界チートものは最終的にインド映画になる

 

 最近、我がオフィスのコンプライアンスが厳しい。というのもインターネットの閲覧にかなり制限がかけられており、資産運用やギャンブル・ゲーム関係は軒並みブロックされていてPCから見ることができない。検閲の鬼。日本版金盾。まあ当然といえば当然なのだが、その余波もかなりのもので、たとえばWikipediaが見られないだとか、Gmailが開けないとか、普通に職務に支障が出るレベルのバグも起こっている。まあ仕方ないので(?)真面目に仕事をするしかない状況だ。

 

 

 

 そうはいっても暇な時間というのは生まれてくる。そんなとき、私は小説家になろう」(Web小説の投稿サイト)を読むことがある。といっても、投稿された小説のストーリーを純粋に楽しむつもりなどさらさらない。私は常に自分より下だけを見て生きているため、このサイトの楽しみ方といえば、投稿された質の悪い小説を斜め読みして「うわ主述の関係グチャグチャだな」とか「最初の伏線覚えてないなコイツ」とか考えながらニヤニヤするというのがもっぱらだ。このような人間の最果てみたいな楽しみ方をしているため、正直言って内容はまったく頭に入ってこない。

 

 ただ、人気のジャンルはさすがに目に付く。このサイトで依然人気を誇っているのが、異世界転生系の作品である。

 

 

 

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 ラノベ界では異世界転生作品が隆盛を極めて久しい。よく聞く「なろう系」とは本来もう少し広義を指す語句らしいが、アニメをあまり見ない層(私も含めて)からしたら同じようなものだ。その中でもよく見かけるティピカルな属性として、異世界チートもの」が挙げられる。大当たりした作品はさほど多くない印象(将棋のやつとかくらいか)だが、作品数は非常に多い。この理由はどこにあるのだろうか?

 

 異世界チートものとは、主人公が異世界に転移した時点で、その世界では非凡とされる能力を身に付けている作品のことだ。例えばめちゃくちゃ強い能力が使えたり、あるいは現実世界での常識がそのまま異世界におけるオーバーテクノロジーだったり。テーブルを用いたり、肉を両面焼いたりするだけで褒められる作品まである。

 

 もちろんこれら作品は(ほんとうに若者がラノベを読むのか、という議論は別として)、現代における若者の”要請”に応える形で生み出されているということに間違いあるまい。ではその要請とは何か。それは、「努力せずに結果を出したい」という願望である。

 

 

 

 現代社会はストレスにまみれている。ここ十数年で人間は触れる情報の量が極端に増え、我々は日夜、インターネットで新たな才能の開花を目にしている。それは同時に、自己と”才能ある誰か”との比較を日々迫られている、ということの裏返しでもある。(最近では鬼滅の刃のパロディAVのタイトルを見た瞬間、私は膝から崩れ落ちた。このセンスに直面すると、自分の才能はなんてちっぽけなんだろうと感じる。ちなみに女優さんは普通にかわいくて内容もけっこうよかった。鬼滅の刃は読んでないので原作再現とかはわかりません)

 

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"刃"を崩してオ〇コにするデザインセンス。私がGoogle社だったら彼をヘッドハントしてる。



 

 とすれば、先ほどの言、「現代社会はストレスにまみれている」とは、「現代人は劣等感にまみれている」と言い換えることもできるはずだ。ここに、先ほどの願望の根源がある。自分は何もできない、でも誰かに認められたい。そんな苦悩が上記のようなジャンルのラノベを生み出したといえよう。

 

 

 

 とはいえ、このような「異世界チートもの」の作品の中でも、もちろん物語には展開がある。主人公がずっと超能力を発揮しつづけているだけでは作品としての面白みがないため、必ずどこかで苦戦する場面が(少なくともヒットする作品の中では)訪れることになる。

 

 

 

 物語の展開を生み出す要となるのは、”緊張と緩和”である。「こんな敵勝てるはずがない」というスリリングな展開(=緊張)と、「やった!倒した!」と安堵する展開(=緩和)。バトルを中心的題材とするヒット作品は、このサイクルを生み出すことによって読者を引き込むことに成功している。

 

 

 

 そしてこの”緊張と緩和”システムの最も大きな特性は、「作品横断的である」ということである。

 

 異世界チートものは、必ず”緩和”から始まる。転生したあとの主人公が楽勝に無双する感覚は、間違いなく”緩和”のそれである。そして作品の中盤以降で強大な敵を前にすることで”緊張”が訪れ、それが解決する”緩和”がやってくる。もちろん作品内での細かなサイクルは存在するにせよ、大きな流れとしてはこのような形であることに間違いない。

 

 そして読者は、次の作品へと手を伸ばすことになる。緊張と緩和のサイクルを求める読者は、次の作品でもこの緩和→緊張→緩和という流れを味わおうとする。それは断続的に、しかし際限なく続いていく。つまり異世界チートものとは、単一の作品におけるサイクルを作り出しているだけでなく、このような”ジャンル内でのサイクル”を作り出している点が特徴的だといえる。(もちろん他のジャンルでも同様のケースはあるが、物語の導入が”緩和”であるという点で他のジャンルとは一線を画すものであることは強調しておきたい。)

 

 この意味で、異世界チートものは単独で存在する作品というよりは、ジャンル自体が集合体なのである。(ここまで書いて思ったのだが、この話、やや難解すぎやしないだろうか。いや、それを考えられる私がすごいとかではなく、なんか読者にわかりやすい表現とか、ホスピタリティとか、そういう考えを忘れてはいけないなという戒めだ。)(ということをしっかり考えられる私、すごくないですか?

 

 

 

 異世界チートものが集合体である、という事実は、なんとも相反的である。なぜなら異世界チートものは一般的に、承認欲求(=個人的な欲求)を満たすものであると考えられているからだ。異世界で開花した能力を武器に無双する主人公。それに自己を投影することで、読者は自身の承認欲求を(仮に)満たすことにつながるわけだ。若い女の子たちが女性アイドルを追っかけたりするのと、構造的には同じである。

 

 しかし、集合体に属するということは、自己の承認を求めてのことではなく、組織への所属欲求を満たすことである。所属欲求は個人ではなく、集団として実現される欲求だ。そう考えると、これは現代の若者が求める欲求の傾向と同じであるともいえる。異世界チートもの作品を読む若者たちは、承認欲求から所属欲求へという現代人のモラトリアムの形にぴったり符合しているのである。

 

 

 

 だがこれは、そのモラトリアムに終わりが来ないことも同時に意味している。なぜなら、上記の緩和と緊張のサイクルには終わりがない。ならば読者たちは、いつまでも所属欲求を(完全に)満たすことができず、承認欲求と所属欲求の狭間で彷徨うことになる。この輪廻を止める方法はどこにあるのだろうか。

 

 

 

 

 

 話は変わるが、マハーバーラタ”をご存知だろうか

 

 世界史を学んだ諸氏には憶えがあるはずだ。マハーバーラタとは、インドを代表する大叙事詩である。紀元前から紀元後にかけて長い時間をかけて書き足されたもので、長さは聖書の4倍くらいあるらしい。800年以上もの歳月をかけて書かれているこの作品は、もちろん不特定多数の人間によって書かれたものである。その意味で、テーマは一貫しているものの、それぞれが個人作品の集合体であることに変りはない。とすれば、これは異世界チートものと状況を同じくしていると言えないだろうか。

  

 マハーバーラタのストーリーは実に冗長である(らしい。実際には読んだことないから詳しくはわかりません。なんでも、イイモンのパーンダヴァ五王子ってやつらと、ワルモンのカウラヴァ百王子ってやつらが戦う話らしい。まじかよ。悪者のほう20倍もおるけど大丈夫なんか)。そして、特筆すべきはその終わり方である。作中で登場する善と悪、その両陣営が天界に昇り、全員集合して終わる(その後はのどかに暮らす)というものらしいのだ。

 

 それまで争っていた両者が戦いの末に和解し、平和な生活を手にする。そしてそれを手に入れる方法は、”天界に昇る”という身体的経験である。先述の輪廻を終わらせる方法は、まさにこの”身体的経験”にあるのではないか。

 

 

 

 私は映画には明るくないのだが、インド映画によくある”最後に踊る”という手法は、まさにこの”身体的経験”を体現しているといえそうだ。物語の結びに、敵も味方もなく、ただ踊る。これはただの文化的特質を超えて、現代を生きる上でのインド式の回答を我々に投げかけて来ているような気さえする。

 

 

 

 最終的に昇天によってその終止符を打ったマハーバーラタのように、現代社会における所属欲求の充足も、結局は”身体的経験”によってなされるしかない。承認欲求と所属欲求を渇望する読者たちの期待が高まる今こそ、異世界チートものは「最後に踊る」という構成を試してみてほしいところだ。

 

 

 

 

 

 もしこの記事を読んで、異世界チートものの最後に主人公とヒロイン達と敵がみんなで踊る作品を書こうとしている方がいたとして、私はなーんにも責任を持たないので気をつけてほしい。この文章を通して私が言いたかったことは、そのへんのなろう小説投稿者は俺の文章力を見習えよっていうことと、この高い能力に惚れた女の子はハーレム作っていいよということだけだ(下しか見ていない人間の発言)