硬直1000F

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茶道、もてなし、エロサイト

 


 インターネットの進化が直接に変化させたのは、コンテンツだけではない。我々がそのコンテンツにアクセスするためのインターフェースもまた、大きく形を変えてきた。中でも昨今のエロサイトは、AmazonFacebookに引けを取らないほどの体系化が進んでいる。これは、インターネットの黎明期から比較すると考えられない事態だ。


 特に、巨大なサイトであればあるほど、その傾向は顕著である。映像配信ではPornhub、イラストのPixiv、そしてあらゆるエロコンテンツの商業面を一手に引き受けるFANZAやDLsite……企業が牽引するこれらサイトの、膨大なコンテンツ量に裏打ちされたそれらのカテゴライズは見事なまでだ。


 このようなステマティックなWebサイトの構造は、現代社会のシステム化と正確に符合する。あらゆる職業が専門化し「その道のプロにしかその仕事はできない」状態になった現代と同じように、エロコンテンツも微に入り細に入るカテゴリ分けによって「その道のプロにしかシコれない」までになった。我らは隣人の性癖にてシコれず。NTRふたなり、逆カプBLや痴漢ものなど、好き嫌いがはっきり分かれるカテゴリは日夜増えている。そういった意味で、地雷を踏み抜かないよう緻密に分類されタグ付けされることは、現代における必須のゾーニングなのかもしれない。

 


 しかし……と私は思う。確かに便利になってはいるし、自分自身もその恩恵を受けている者としてこうであってほしいという思いはあるものの、一抹ばかりの寂寥を感ぜられるのも否めない。私は、在りし日のエロサイトに一種のノスタルジーを覚えるのである

 

 


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 かつて、エロサイトは個人に帰属していた。個人でドメインを取得し、個人でギャラリーを作成し、個人でカウンターも掲示板も設置する時代だった。だから、それらはこだわりを持って配置され、サイト全体の雰囲気づくりに一役買っていた。そしてその最たるものは、サイトの入口部分であった。


 江戸の華が火事と喧嘩なら、個人サイトの華はトップページである。各サイトを訪れたとき、閲覧者がまず見る部分。そこにはサイト名と注意書きがあり、多くは18歳以上であることを宣誓する形で入口が配置されていた。


 言葉にすると単調であるが、構成要素が単純な分、そこにはさまざまな趣向が存在した。背景画像や装飾画像によって鮮やかに彩られていたり、あるいはアングラな雰囲気を醸し出すために黒を基調としたデザインになっていたり。入口の配置にしろ、単純に中央に置かれているだけではなく、注意事項の中にリンクが潜ませてあったり、背景色と同化するような色でページ下部に配置されていたり。一見すると入口っぽい部分が実はひっかけで、よくよく注意事項を読まないと入れないものや、パスワード的な一語をURLに直打ちで追加させて実質の入口とする手の込んだものまであった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                


 一方、個人サイトを訪れる我々はそんな趣向をおくびにもかけない。我々はただシコりたくてその場を訪れているだけだからだ。そんな折、わざわざ手の込んだ入場方法を取らされる個人サイトは面倒だ。そして面倒であることは当然、サイトの作り主もわかっている。それを承知の上で面倒な入場方法を設定しているのであれば、我々はその管理人の性格はおろか、そのサイトの性的傾向をも類推することになる。「一筋縄でいかない入場方法を設定しているなら、管理人はひとクセある人物に違いない。あるいは、軽い気持ちで見せるわけにはいかないハードな性癖がテーマなのか?」


 また、サイトのテーマカラーやフォントなどから得られる情報も多かった。背景が黒を基調としているなら性癖もややダークなものが多かったり、アーティスティックな作風の管理人はフォントまでもお洒落なものを使っていたりした。

 


 このように、トップページは単なるサイトの入口に留まらず、そのサイトの全景を表す役目も持っていた。管理人側はトップページの構成や装丁によってコンテンツの傾向までも物語り、また訪問者側である我々はトップページからそれらの傾向や管理人の人物像までをも想像していたのだった。

 

 


 さて、実はこのような性質は、エロサイトに固有のものではない。こと日本においては、状況を全く同じとする伝統文化が存在する。それが利休の大成させたもてなしの道、茶道である。


 茶道の本質は「茶」そのものではなく、客人をもてなす礼法に存している茶の湯自体の味がどうこうは実は問題でなく、それを拡大した環境、茶器や茶室や露地(庭園のこと)の設えにこそもてなしの精神は表れるのである。


 特に茶室の入口に立ったとき、庭の花や草木の手入れを見て、露地と玄関の清潔さを見て、客人は主のもてなしに思いを馳せる。茶や着物、茶室の装丁は急ごしらえも可能だが、庭の手入れはそうはいかない。つまり入口には、日頃からいつでも客人を迎えられるようにしているかどうか、主人の心持ちが最もよくあらわれるのである。ともすればあるいは、茶室の入口に立てばその日の茶事がすべて判ると言ってもよいかもしれない。

 


 これはまさしく、個人エロサイトの趣そのものではないだろうか。どちらも中心的コンテンツはエロや茶でありながら、エロサイトはトップページに、茶道は露地に、主人から客人へのもてなしが最もよく表れていた。客人は一を聞いて十を知るがごとく、庭先の椿を見て茶室へ向かう足を速め、隠されたリンクを見てシコる手を速めたのである


 とすれば、個人エロサイト(特にイラストサイト)が日本で隆盛を極めたのも頷ける。日本のエロコンテンツはその草創期から今もトップを走り続けている。それはいわゆるジャパニーズアニメの表現力が国民に浸透しているだとか、そもそもモデルとなる日本人女性の造形が美しいだとか、端々に理由を求めることはできよう。しかし、そういった内容面での理由付けにもまして、我々の根底を流れるもてなしの精神が、個人エロサイトにはあったからだと、そう考えることはできないだろうか。我々は知らず知らずのうちに、茶道的精神をインターネットに持ち込み、まるで茶を点てるがごとくに、世界中の男性のチ○ポを立てていったのである

 

 


 日ごとシステマティックになっていく企業エロサイトに私が寂しさを感じるのは、こうした理由にある。今やエロサイトには、露地も、茶室も、掛軸もない。あるのは茶の味の違いと、僅かばかりの茶器(フォーマット)の違いだけである。かつて宗匠たちが意匠を凝らした「コンテンツ以外の部分」は画一化され、玄関には椿の代わりに味気ない作品タグが掲げられるのみとなった。


 便利であることは否定しないし、この方向性が間違っていると言うつもりもない。ただ、こうした便利さの一方で、失ってしまった精神もあるのではないかと、いちユーザーとしての郷愁を覚えるのである。性をも企業が牽引する、大資本主義時代。そんな中で、茶道を生み出した国としての矜持を期待したい。

 

 

FANZA草子(ふぁんざのそうし)

 

春は着エロ

やうやう白くなりゆくスペルマ

少しシコりて

ムラつくあたりにて着衣を脱ぎて悲しみたる

 

 

夏は咥えコンドーム(ゴム)

ギャルのものはさらなり 地味もなほ精液多く飛びちがひたる

またただ一つ二つなど 太ももにうち捨てらるもをかし

腰蓑するもをかし

 

 

秋はNTR(ねとられ)

彼氏のモノの小さくていと欲求不満なるに サークル合宿へ行くとて

三人四人 二人三人などして犯さるるもあはれなり

まいて男共のモノの勃ちたるに 彼氏のモノいと小さく見ゆるはいとをかし

数日果ててビデオメッセージなど届く はたいふべきにあらず

 

 

冬は邪エステ(じゃえすて)

媚薬の焚きたるはいふべきにもあらず 施術師のいとキモきも

またさらでもいと暗きに 死角からカメラで撮りて

徐々に施術のエスカレートするもいとつきづきし

逆にメンズエステものにて はじめはエステティシャンの敬語使ひたりしが

次第にタメ口がちになるもエロし

 

 

AIが性癖を殺す

 

 結婚してからめっきり自分磨きの頻度が減った。さすがに性欲の減退を感じる。といっても元から性豪というわけではなく、あまつさえ夜遊びなんてして来なかった人間であるため、別段不便は感じていない。ただ、性的コンテンツが激変していく現代、最も多感な時期にある若者はどういった性の変遷を辿るのか。その渦中で経験してみたかったという思いはある。

 

 

 

 

 

 性と暴力は科学を牽引する。昨今は、“AIコスプレイヤー”なる存在が一躍話題となっている。AIによる画像生成の一種なのだが、あまりに完成度が高すぎて「リアルのコスプレイヤーいらないじゃん」などと嘯く輩すら出てくるほどである。確かに顔は美形中の美形、身体的にも現実の女性を凌駕するスタイルで、現実にかなり寄ってはいるがあくまでフィクショナルな部分も見て取れる。架空だからこそ完璧な存在が生み出せるというのは美術の伝統であるが、現代においてそのひとつの骨頂を見ているのは間違いないであろう。

 

 下の画像も、Midjouneyで適当に出力した画像だ。

 

にゅいーんと伸びた小指がキュート

 

 

 さて、私は先ほど「完成度が高い」と述べたわけだが、この表現からはさまざまな意図を読み取ることができるかもしれないし、あるいは一つの意味しか読み取れないかもしれない。ここでいう完成度が高いとは、とりもなおさず”抜ける”ということである。はっきりと明言しておくが、AIコスプレイヤーの画像を見たとき、やれ身体構造がどうだとか、やれ余白との対比がどうだなどという点に注目している男は一人もいない。性欲がカラんだときの男のIQなんてのは土佐犬くらいしかなく、対象を抜けるか抜けないかでしか判断していない。そして私もそのうちの一人である。

 

 「そうはいっても多少はその、可愛いとか、そういう見方もしてるでしょ?」と女性諸氏はお思いかもしれない。そんなことはない。抜けるか抜けないか、それだけだ。「エッチだなあ~っていうのは私も思うよ!」と、これも女史。違う違う。”エッチだ”ではない。”抜ける”だ。”抜ける”は単なるエッチ、エロいとは似て非なるものである。

 

 “エロい”“エッチだ”という語は、感覚的な事実を述べている。それは客観的であり、なおかつ完了形である。つまり、(誰が見ても)”エッチだ”という事実を述べる語だと解釈できる。一方、”シコれる”という語は、分類的には動詞である。それは話者を主語に取り、その身体、可能性への言及を含んでいる。言うなれば、(他人のことは知らないが、俺は)”シコれる”というニュアンスを内包しているわけである。

 

 “抜ける”はあるいは”シコれる”と換言することができる。先に述べたように、これは身体と密接に結びついており、その身体に今後起こる可能性について言及する語である。そういった意味では、”抱きたい””ヤりたい”といった語とも同様の意味になるような気もするだろう。しかし、私はここにも明確な差があると考えている。それは単純で、対象が実存かどうかの問題である。”シコれる”と我々(男)が宣言するとき、その発言のうちには無意識的に、対象の不在に対する承認が含意されているのではないだろうか?

 

 例えば、えなこや伊織もえ、火将ロシエル(いちばんすき)の画像を見たとき、我々(男)が抱く感情はどんなものか。”シコれる”に近い人もいれば、”ヤりたい”に近い諸氏もいると思う。これは対象が実在しているからである。(あくまで無意識的にではあるが)実物が目の前にいるなら是非お相手していただきたい、そう考える男性は”ヤりたい”を用いるだろうし、実物を前にしても見るだけでいい男性は”シコれる”を用いるのではないか。しかし、AIコスプレイヤーの場合はどうだろう?それが実在しない対象であることは、さすがの我々土佐犬であっても分かっている。”抱く””ヤる”が不可能だという前提のもと想定される言語表現こそが”シコれる””抜ける”なのである

 

 


 さて、AIコスプレイヤーが実在しないことは明白であり、それが我々の言語表現にも影響を与えていることはすでに述べた。しかし、これはあくまで”物理的実在”の話である。実は”社会的実在”としてのAIコスプレイヤーは、実在していなくもないのではないか

 

 岩井克人氏は“社会的実在”を「多くの人間が実在していることを認める、信用度の高い概念」のことであると定義した。彼はその代表が言語・法・貨幣であるとし、多くの人間がそれを実存として認めることで実存しているものだと述べる。

 

 AIコスプレイヤーは当然、この時点では実在と呼ぶことはできまい。しかし、AIコスプレイヤーを形作るベースとなっている概念、”性癖”はどうか?これは多くの人が実在を認めており、しかも一定の信頼(自分はこのジャンルで実際に興奮する、という経験)があるではないか。この点で性癖は”社会的実在”である

 

 

 

 ところで、性癖は本来多様なものである。画像1枚に収まるような、視覚的で静画的な性癖に限定したとしても、その嗜好はあまりにも多岐にわたる。筆者の知人にもスタンダードな巨乳好きからBL好き、女の子が泥まみれなのがいいとか、挙句丸呑みされるのがいいなどなど、俄かには信じられない好みが散見される(ちなみに筆者はエロ漫画のコマの中にvくらいの細っいハートマークが散りばめられているのが好きである)。

 

 しかし、これらはもちろん表現上のことであり、また他人により規定されるようなものではない。私もこれら知人の性癖にやーのやーの言ったことはない。権利がない。同時に友人たちにも、私の好きな「左から『イけ。イけ。』右から『イくな。イくな。』と同時に囁かれながら二人の手を恋人握りみたいにした状態で手コキされるシチュ」に文句を言わせるつもりはない。それで興奮するかどうかは人それぞれ、現実世界にそれを持ち込むことがない限り、性癖は完全に個人の自由であるはずだ。

 

 しかし、AIコスプレイヤーはAIによって作られたものである。それはビッグデータから抽出されたものであり、性癖についての協調フィルタリングがはたらいていることを忘れてはならない。誤解を恐れずに言えば、AIコスプレイヤーは世の中の多数派男性の性癖にマッチするデータに基づいて作り上げられていることになる。今後もこの傾向が続いていくのであれば、AIコスプレイヤーが発展すればするほど、最大公約数的な「万人ウケ」の女性像が出力されることになる。逆に、少数派男性のニッチな性癖はフィルタリング段階で見過ごされ、相関の弱いデータとして俎上に乗せられることはなくなってしまう

 

 性癖は社会的実在でありながら、そのコンテンツについては完全に個人の自由意思に委ねられていたはずなのに、そこにAIが介在することにより性癖の内容までもが規定されてしまう。ニッチな性癖を持つ人間たちは、AIコスプレイヤーの恩恵を受けることはできない。AIに、性癖が殺される。そうまで考えてしまうのは、単なる杞憂だろうか。

 

 そんな世の中にしたくない。私がさせない。近い未来、「おねショタのショタが途中から逆転するパターン」だけになってしまった世界で、一人戦っている勇士がいたら、それが私だ

 

 

 

 

 

 ……少々喋り過ぎたかもしれない。あと言ってない性癖は時間停止が解除されたときに快感が一気に来るやつエロトラップダンジョンくらいになってしまった。妻がこの記事を読まないことを祈るのみだ。