硬直1000F

3日でやめます

透明人間って意外と不便だよ絶対

 

※ 今回の記事は下ネタ成分が若干多めです。よい子のみんなはブラウザを閉じてゾウでも積んでてね!

 

 

 

 

 

 ホットコーヒーがおいしい季節になった。その中でも、近年のコンビニコーヒーの躍進はめざましい。かく言う私も、最寄りのセブンイレブンに行く度に必ず100円のホットコーヒーを買ってしまう。めちゃくちゃ買ってる。体感だが、もう100万円分くらい買ったんじゃないか。そのくらい美味い。飲み終わった後のカップを捨てるためにセブンに寄り、カップを捨てたあと、同じものをもう一度買ってしまう。見事に策略に嵌められているといった感じもするが、もうこれがないと生きられない身体になってしまった。うますぎる。このあとの人生、一生同じ飲みものしか飲み続けられないと、もしそうなったら、それは、もう、間違いなく、。え?水でしょ普通に。

 

 

 

 水を飲むという行為は、人間の原初的な行動だ。しかし改めて考えてみると、透明な飲み物って、ちょっとこう・・・不気味に思えないだろうか。透明な食べ物が不気味であるように(水まんじゅう業者の方すみません。おいしいですよ。でもあれは不気味だと思う)、透明な飲み物もそれに準ずる感情が湧き起こる。恐らく、透明なのに味がある、ということに違和感があるのだろう。透明なのにヨーグルト味やレモンティーの味がする飲み物も売っているが、2度買おうとは思わない。というかあれに関しては透明であることの必要性が見いだせないということもある。色ついてて不都合あるか?なんだか透明という属性は、色とは少し別の、我々にとって特別な存在であるように思える。

 

 

 

 

 

とうめい【透明】《名ノナ》
光がその物質をよく通り、すきとおって見えること。「―なガラス」「無色―」「半―」。

 

 

 

 

 

 透明になりたい。そうは思わないだろうか。思いますよね。絶対思うはず。人間だったら・・・いや、ここは恥と外聞を捨てて率直に言うが、男だったら一度は透明人間になりたいと思うに決まっている。これは男子共通の夢だということは、ソフトオンデマンド社が証明している。(デイリークエスト「AVの話題を出す」を達成しました!)

 

 

 

 透明人間になれたら何をするだろう。男性ならやはりまず向かうのは女性更衣室か?はたまた金品の窃盗?しかし、透明人間のレアリテを想像してみると、実は意外に実行困難なことが多いようにも思えてくる。

 

 

f:id:dr0ptheh8:20171219154116p:plain

 

 

 透明人間、まず1つ目の問題点は、透明状態が永久に続くという保証がないことだ。

 

 議論をわかりやすくするため、「何で」透明になったかを仮定しよう。大きく分けて、光学迷彩スーツみたいなやつで透明になる科学パターンと、ある日起きたら透明になっていたというフランツ・カフカ方式や、泉から出てきた大妖精が透明化の呪文をかけてくれる方式などを引っくるめた、魔法パターンの2つがあるだろう。

 

 我々の世界は質量保存によって成り立っている。透明になるために電力なり何なりのエネルギーを利用しているならば、当然エネルギー切れも起こるということだ。そうでないとして、たとえば「この透明人間スーツは、お前のエロ力(ぢから)(性欲の強さみたいなやつ)をエネルギーにしているから、エロいことを想像している間はずっと透明でいられるぞ」みたいなありがちなことを言ってくる使い魔的なやつが出てきたところで、四六時中エロを考えるのはさすがにキツい。この私は起きている時間のほとんどをウガンダで飢餓に苦しむ子ども達を救うために何が出来るかという自問に費やしている(本当)ため、このようなスーツはもはや拷問ですらある。

 

 また、魔法パターンはもっと顕著だ。その効力はいつ切れるかわかったものではない。よしんば「この透明化の魔法は、あなたのエロ力(ぢから)(性欲の強さみたいなやつ)を触媒にしているから、エロいことを想像している間はずっと透明でいられるわ」みたいなことを大妖精が言ったとして、四六時中エロを考えるのはやっぱりキツい。この私といえば起きている時間のほとんどをウガンダで飢餓に苦しむ子ども達を救うために何が出来るかという自問に費やしている(本当)(本当に)ため、このような魔法はもはや拷問ですらある。ところでウガンダってどこにあるんですかね。

 

 仮にエロ方面に透明能力を利用するとして、女性更衣室を覗き・・・あ、ちょっと言葉が下品ですね。えーと、じゃあ、視察。女性更衣室を視察中にその効果が切れたらと思うと血の気が引く。窃盗でも同じだ。100%安全だという確証のないものは使いたくない

 

 

 

 2つ目の問題点は、実現難易度に対し、リターンが合っていないということだ。

 

 ここで再び透明人間の定義の話になるが、透明人間は通常の人間と同じく、物理的事象に関して相互干渉的であるのは間違いない。つまり、ものを触ったり掴んだりすることが可能だということだ。なぜなら、このような物理的干渉性を持たない場合の透明人間はほぼ空気と同じであり、自由意思による移動ができなくなってしまうからだ。また、身体の器官をすべて備えたまま透明になるとするなら、質量を持たない状態では生命活動を維持できなくなってしまうから、という見方もできる。いずれにしろ、透明人間は触れる/触れられることが可能だと仮定することができる。

 

 ここで、女子更衣室の視察に話を戻したい。透明人間が物理的干渉性を持つならば、女子更衣室内では触覚によって存在が露見する可能性があるということだ。透明人間には触れることができるため、透明人間側は存在を気取られないように、すべての女子たちを回避せねばならない。これは恐らく至難だと思うのだが、どうだろうか。もし読者のみなさんの中にこのゲームを既に経験したことがある方がいたら普通に通報するので教えてほしい。

 

 そして、このようなハードワークの末に見られるのが男子禁制の情景なわけだが・・・・・・これ、正直言って、そんなに見たいものだろうか?そりゃあ、嗅覚的側面だったり、臨場感というか、ライブ感というか、そういうのがあるのはわかる。それを差し引いても、更衣室にしろ浴場にしろ、見てそんなに良いものではない気がする。そういった女性の日常の姿を見るのは、高級料亭の厨房を覗き見るようなもので、見たところでさして興奮するものではないと私は思う。そういう舞台裏はブラックボックスのままにしておいて、仕出された向付や肴を楽しむのが至高なのだ。そう考えるならば、透明になったとはいえど、自宅でShowbizとしてのAVを見ていたほうが生産的かつ建設的な行動ではないだろうか。何この話?

 

 とにかく、透明人間としての振る舞いには、リスクとリターンが釣り合っていない部分があると考えられる。

 

 

 

 

 

 さてここまでで、透明人間が実行動を起こすときに枷となりうる部分について述べてきたが、もう1つ、より定義的な部分に焦点を当てておきたい。

 

 透明人間は定義上、「見えない」もののはずだ。しかし、次のように考えてみたらどうだろう。

 

 

 

 一般的に、透明人間はまったく見えないわけだから、いわばその透過度は100%だ。ここで、この透過度を0.00001%だけ下げる。つまり、透過度99.99999%にする。0.00001%の透過度の差は人間に視認できるものでないため、この2者には差がない。すなわち透過度99.99999%人間も、透明人間だ。このとき我々は、

 

P:Tは透明人間である。

Q:透明人間の透過度を0.00001%下げても、透明人間であることに変わりはない。

 

 という2つの命題を同時に認めることになる。

 

 これは数学的帰納法によりすべてのTにあてはまる(つまり、透過度99.99998%人間、透過度99.99997%人間、透過度99.99996%人間・・・・・はすべて透明人間になる)わけだが、すべてのTに対してこれがあてはまるなら、当然この命題Pは透過度0%の人間に対してもあてはまることになる。

 

 証明された。あなたは透明人間だ灯台下暗し、最も卑近な透明人間は、ここにいたのだ。今後の人生は、是非とも透明人間として生活してゆくべきだ。しかもあなたの場合、エロ力(ぢから)(性欲の強さみたいなやつ)を媒介にしているわけではないため、効果が切れる心配もない。案ずるな、あなたは透明人間なのだから、女子更衣室に入っても、金品を盗んでも、訴えられることはない。自信を持って!大丈夫!今でしょ!レッツピーピング!フゥー!

 

 

 

 

 

 


 ここまで読んでしまった悪い子のみんなは、こんな詭弁に騙されないようにちゃんと勉強しなきゃだめだよ。ではまた、あなたに逢えるのを楽しみに待って、さようなら。

 

 

AIはクソリプができない

 

 ツイッターってやばくないですか?15歳以上の日本人がかなりの数やってて、その多くの人に個別に話しかけることができるツール。そこらのおじさんが女子高生に普通に話しかけられるツール。さすがに危険すぎる。お困りの女の子がいたら言いなよ。僕が守るからさ。え?アイツを倒せって?わァったよ。―――さーて、いっちょ世界、救っちまいますか―――(ご愛読ありがとうございました、ハブ石井先生の次回作にご期待ください!)

 

 

 

 

 

 

 

 そんなツイッターを使いこなしているみなさんなら、クソリプという言葉はとうにご存知だと思う。えらい嫌われてますよね。これ。今回はこのクソリプなるものについて考えてみたい。

 

 

 

 そもそもクソリプとは何か。このことについて、筆者が最も信頼しているWebメディアであるYahoo!知恵袋で調べてみた。それによると、Twitterなどでつまらない返信を相手に送りつけることを指して言うらしい。ベストアンサーがそう言ってるんだから間違いない。

 

 この点については私も同意だ。クソリプはすべからくつまらない。一周回って面白いとかそういうコウメ太夫みたいなやつもあるが、ストレートに見たら絶対につまらない内容になると思う。しかし、たとえつまらない返信であっても、クソリプにならない場合は往々にして存在する

 

 

魯迅@kokyou_suki

Shaznaの”すみれ September Love”、めっちゃいい~♡

 

呂布@kan-u_shine

わかりみ!めっちゃいいよね!

 

 

 

 このリプライは、つまらない。つまらないが、決してクソリプではない。それならば、クソリプは何をもってクソリプたりえるのか?

 

 

 

 

  

 会話とは構造上、相手の返答を期待するものである。そして、我々はそのとき同時に、相手の返答の内容自体も予測していると言われている。「今日は天気がいいですね」と誰かに投げかけるとき、我々は「そうですね」とか「洗濯物干せそうでよかった」とか、そういう”返答の可能性範囲”を同時に設定しているのだ。

 

 リプライは、会話だ。もちろんツイートの時点では会話ではないが、リプライがついた時点でそのツイートは会話の起点となる(ことが遡及的に決まる)。それならば、リプライにも当然この”返答の可能性範囲”が設定されるはずだ。

 

 

 

 もうおわかりだろう。クソリプであることの要件は、つまらなさだけではない。もう1つ、”返答の可能性範囲”の乗り越え、というのも含まれるのだ。どうしたベストアンサー。間違ってるぞ。使えねえサイトだ。

 

 

 

 先に挙げたリプライ例は、内容的にはつまらないものではあるものの、この”返答の可能性範囲”を乗り越えるものではない。だからセーフなのだ。俺が間違ってるとかいうツッコミはやめろよ。喧嘩になるから。俺キレたら何するかわかんねーからな。ぶちギレて友達病院送りにしたことあるしwそのときの記憶全然ねーからあとで聞いた話だけどw

 

 

 

 つまり整理するとこういうことだ。

 

クソリプの条件〉

 

 

返答の可能性範囲

 

 

越えていない

越えている

面白さ

面白い

ユーモアのあるリプ

(もらったらうれしい)

予想外のおもしろリプ

(超うれしい)

つまらない

普通のリプ

(いらない)

クソリプ

(逆にうれしい)

 

※( )内は筆者の感想です

 

 

 

 

 

 さて、昨今のインターネット社会において、このような”返答可能性の範囲”に着目している最大の事例が、コミュニケーションAIだ。

 

f:id:dr0ptheh8:20171211213259p:plain

ポケモン公式LINEロトムとの会話のようす

 

 

 

 コミュニケーションAI(以後AI)の発展はめざましい。しかし、現状ではその受け答えは完璧ではない。柔軟な意思疎通と当意即妙な応答は、まだまだ青写真の段階だ。

 

 

f:id:dr0ptheh8:20171211213407p:plain

 筆者とポケモン公式LINEロトムの会話。ルールを確認しただけなのにだいぶ煽られた。

 

 

 

 さて、上記の画像でロトムが最後にしている発言は、面白いものでもない上、当然”返答の可能性範囲”を逸脱している。つまりクソリプだ。しかし我々は、このAIの発言をもって、「話の通じないヤツだ」とは思わないだろう。だって、相手はAIなのだから。

 

 

 

 ここに、まず1つの帰結を見て取ることができる。相手がAIであるという前提があれば、我々はクソリプクソリプと感じることはないのだ。そしてこの命題は、新たに2つの逆説を導くことになる。

 

 

 

 

 

クソリプに垣間見る”不気味の谷

 

 先立って、クソリプとAIの相関を述べた。では、我々がクソリプにここまで嫌悪感を覚えるのはなぜか?温かく看過できないのはなぜか?その理由は、”不気味の谷”にあると私は思う。

 

 “不気味の谷”とは、ロボットが人間に非常に近づいたとき、親近感から嫌悪感に変わる一定のラインのことである。詳しくはWikipediaを参照してほしい。要約すると、〈人間に非常に近い・でもロボットの要素が残っている〉という存在は、生理的に気持ち悪いということだ。初音ミクとかが最初ちょっと気持ち悪かったのもこのせいだと思う。PS2くらいのリアル系のCGも気持ち悪い。LINEのひとことコメントにポエム書いてるやつも気持ち悪い。なーんてうそうそ、思ってないよ。ちょっとしか。

 

 

 

 我々がクソリプに感じる嫌悪感は、まさしくこれに該当するのではなかろうか。人間でありながら、AIのような返答をしてしまう存在への嫌悪感。「人間に非常に近いロボット」に対するそれではなく、「人間であるはずのものがロボットに成り下がったような状態」に対する嫌悪感。

 

 クソリプは、人間が不気味の谷を転がり落ちる、そのときの嫌悪感を体現しているのである。

 

 

 

 

 

クソリプこそが人間を人間たらしめる?

 

 ネット上のマナー(ネチケットっていう言葉はおじさん臭いので使わないことにしている)(っていう意識を持ってる時点でもうおじさんなんだろうな。)(おじさんとか言うなよ。傷ついた。傷つきました。傷ついた天使はまだ見ぬエデンへ飛び立つのさ。エデンは吉野家かな?おじさんだからね。ははは。はぁ。)でも吉野家の牛丼がいちばん紅生姜との相性がいいんだよね。生卵もいいよね。ってカッコ終わってるやんけーーーwwwwww(ズコー(おじさんのノリ)なんだこれ。クソリプの話をさせてくれ。

 

 

 

 ネット上のマナーを守れと言われることがままある。それはとりもなおさず、「画面越しに人間がいることを想定せよ」という意味でもある。ということは、我々は「相手は人間ではない」と思ってしまう状況が起こりやすいということでもある。

 

 このことは、先の命題にも関わってくる。我々は相手を人間だと思うからAIの返答にも似たクソリプを気持ち悪いと思うのである。それならば、我々は画面越しの相手を、人間と思うこともあれば、人間ではないと思うこともある、ということだ。インターネット上のコミュニケーションは、この意味で非常にアドホック(=その場凌ぎ)な相手を仮想して行われているようだ。

 

 

 

 とすれば、我々がクソリプクソリプだと認めたとき、それは同時に、「相手を人間と認めている」ことにはならないだろうか。

 

 クソリプの嫌悪感は、先に述べたとおり、相手を人間だと想定し、それがAI然とした発言をすることに起因しているのであって、相手が人間だという前提なくしては成り立たないものである。

 

 

 

 クソリプクソリプだと認めること、それはつまり、相手を人間だと認めることでもある。ロボット工学者の石黒浩氏に、「人間について考えない者は、機械と同じだ」という至言もある。コミュニケーションが形骸化し、冷め切った関係性に囲まれる現代社会の中、もしかしたら血の通った温かなコミュニケーションは、クソリプにこそ内包されているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ということで、今後はどんどんクソリプしていこうと思います。おじさんだから。僕以外のおじさんのクソリプも温かく見守ってあげてくださいね(^_-)「殺すぞ」とか言っちゃダメ!凍結されちゃうゾ☆

 

 

占いってもしかしてスポーツなのでは

f:id:dr0ptheh8:20171122180537j:plain

 

 高校生の頃から、毎日慌ただしい朝を送っていた。朝食を軽く食べ、寝癖でぐしゃぐしゃの髪型を正し、前日に持って帰ってきてそのままのカバンを引っさげて玄関を出る。そんな朝を過ごす中で、「とにかく急いで支度をする」ということ以外に気をつけていたことが1つだけある。それは、「TVでやっている星座占いを見ない」ということだった。

 

 

 

 

 

 めざましテ〇ビとかでやっている星座占いがある。12星座をランキングしたのち、最下位の星座を持つ愚民どもに捨て台詞のように謎の救済措置を残して去って行くあれだ。毎度毎度救済措置がマジで謎すぎる。なんだ「象牙のグッズを身につけると運気アップ!」って。今時コートジボワール人でも持ってねえだろ。

 

 

 

 といってもここで、「TV局は腐敗してるから信用しない」とかそういうマスメディア論を振りかざそうというわけではない(思ってはいる)。そうではなくて、そもそも占いがあんまり得意ではないのだ。というのも占いって、良かったときと悪かったときの「印象に残る度」の差、やばくないっすか?

 

 

 

 私は世間でいうところのさそり座なのだが、「今日もっともラッキーなのはさそり座の方!」って言われたこと、たぶんない。いやあるのかもしれないが、印象に残っていない。上位にランクインしたことがあったかすら怪しい。それに対し、下位にランキングされることは異様に多かった。もう圧倒的に「ごめんなさ~い、さそり座の方で~す」って言われてる。めちゃくちゃ謝られてる。だいたい悪いと思ってないのに謝るんじゃねえ。お前はビッグダディの息子のどれかか。

 

 さそり座ってほんとうに、実際に下位多くないですか?と私は本気で思っているのだが、そんなことを本気で思ってしまうくらい下位の印象のが強い。

 

 

 

 もともと占いは信じない質ではある。しかし、なんだかんだで見ると信じてしまうのだ。面と向かって(画面だけど)「お前の運は最低!ゴミ!」って言われると気にならないはずはない。そして往々にして、その日起こったちょっと不運なこと(電車で隣に座った中年女性からガラムマサラみたいな刺激臭がして苦しめられるとかその程度のこと)を、「うわー俺今日最下位だったもんなー・・・これかー・・・」と結びつけてしまうことがある。そして悪い印象とババアのガラムマサラだけが残る。わあ。なんかロマンチック。

 

 

 

 私にとっては、そんな無間地獄を避ける唯一の手段が「見ない」ことだった。それはある意味で、その日の運を良好に保つための護身術だったといえる。

 

 

 

 

 

 さて、星座に限らず、世の中には占いがあふれている。テレビで、雑誌で、ウェブ上で、多くの人がさまざまな占いに一喜一憂している。ツイッター上でも、たとえば診断メーカーの結果なんかは目にすることが多い。

 

 

 

 この診断メーカー、当たり前であるが、信憑性はほとんどない。名前の文字列からアルゴリズムに従って結果をランダム表示しているだけで、もはや占いですらないものもある。先日も「~~~~@エロ垢」とかいう承認欲求の権化みたいなヤツが、エロいかエロくないか判定するのみの終わってる診断で出た結果を貼り付けて「やだー♡」とか言ってるだけのツイートにオッサンたちが群がってる様を見て、世界が終わったか?と思った。そんな診断メーカーの結果なんかより、当然血液型占いや、星座占いのほうが信憑性が高いことは明白だ

 

 

 

 ・・・・・・明白なのだ。でも、それはなぜだ?なぜ診断メーカーよりも血液型/星座占いのほうが信憑性が高いのか?

 

(今回ネタ要素はここまでなのでカジュアルに読みたい方はもうブラウザ閉じてもらって大丈夫です。あざっした!

 

 

 

 

 

 診断メーカーの内容は完全に虚構である。しかし、虚構であるということについて、血液型/星座占いが反論できる余地は少ない。こんなことを言うと怒られそうだが、「あなたはエロい人間です」という診断メーカーと、「ラッキーアイテムは象牙のグッズ」という星座占いと、「AB型は変人」という血液型占い、どこかで”虚構度”による線引きができるだろうか?私はできないと思う。

 

 

 

 では、なぜ我々は血液型/星座占いを信じてしまうのか。それは例えば長く信じられているという伝統性であったり、占いのプロが提言しているという専門性であったり、なんとなく誰でも当てはまるという普遍性だったりするんだろうが、私の考えをひとつ述べておきたい。血液型占いや星座占いは、”身体”と結びついていることが、大きなファクターなのではないか。

 

 

 

 

 

 “身体”は、さまざまな学問で頻繁に取り沙汰されてきたテーマである。しかし、実はその考え方は、20世紀に入るまでずっと固定的なものだった。身体は長らく、精神を収めるための単なる「器」と考えられていたのである。現代になって身体は、精神と密接に結びついたものであると同時に、単なる物質ではなく、ときには上位の存在として精神に要請を出したりする”他者”的な側面がある、という考え方が主流になってきた。

 

 とくに最近の研究では、アメリカのベンジャミン・リベットという教授が行った、大脳の電位に関する実験が興味深い。端的にいうと、脳がある行動をしようと”意図”するより先に、身体はその動きを始めているとのことらしい。我々は精神によって身体を支配していると考えがちだが、この結果によれば、もしかしたら身体が精神を支配しているのかもしれないとも思えてくる。上記の「身体が他者である」とは、そういうことを指して言っている。

 

 

 

 さて、このような身体の他者性に関して、評論作家の内田樹氏が編集した「転換期を生きるきみたちへ」という著作(去年出たばっかでホットな話題が多いので面白いです)の中で興味深いことを述べていた。要約して引用する。

 

 

 

 

 

我々の脳には、不要な情報(ノイズ)をカットする機能が備わっている。人間はこの機能を発揮するのがデフォルトであり、基本的には「話を聞かない生物」である。しかし、人が自己の身体に向けて問いを発したとき(たとえば誰かから「いま揺れた?」とか「寒気しない?」とか訊かれ、自己の身体に確かめてみる瞬間)、この機能はストップし、そのとき身体に流し込まれた情報はすべて「宙ぶらりんな状態」で保存される。ここでは情報の要不要は判断されない。

 

(中略)

 

コミュニケーションにおいてはこの「情報が身体に一旦すべて保存された状態」が理想である。脳で判断したとき、我々は「理解」することが前提にあるが、身体はそれをしない。「わかったような、わからなかったような・・・」という状態が、コミュニケーションにとっては最上なのである。

 

(氏はこの「宙ぶらりん」の状態が最上である例として、男女のコミュニケーションに言及していた。確かに異性に「あなたのことを完全に理解した(脳で判断した状態)」と言われるより、「あなたのことをもっと知りたい(身体に保存した状態)」と言われた方が嬉しいのは間違いない。)

 

 

 

 

 

 さて、これも引用になるが、人間は自己の身体に向かって問いを発するとき、即答することは不可能だ。誰かから「いま揺れた?」と言われたとき、あなたは(誠実に答える気があるなら)一旦自分の身体に確認をとるはずだ。そこには必ずタイムラグが生まれ、判断できない場合は追加のデータを待つことになる。そのとき入ってくるデータは全て「身体に一時保存」されることになる。

 

 

 

 さて、遠回りしてしまったが、血液型占いはこの「一時保存」を引き起こしている、というのが私の考えだ。

 

 血液型占いの結果は、我々の身体に聞かないとわからないことが多い。なぜなら、「自分勝手である」とか、「几帳面である」とか、「同じものを食べ続けても飽きない」とかの性質・行動は、我々の身体と紐づけられているからだ。私はO型だが、「おおざっぱである」とか言われたとき、「あー・・・思い返してみると・・・そうかなあ・・・」と、”身体に尋ねる”プロセスを経ることになる。つまり我々は、占いの結果をすべて身体に「一時保存」し、そのデータを身体に投げ込んでいるのだ。

 

 

 

 先だって述べたように、これはコミュニケーションにとって最上の状態だ。そしてこの状態はより高精度な検証のため、「もっと知りたい」という要請を精神に送ることになる。人は占いの結果を知ることで、占いを求めるようになるのだ

 

 

 

 血液型や星座など、"身体"に根ざした占いの信憑性が高い理由はここにある。血液型や星座によって占われているのは我々の脳ではない。"身体"なのだ。そして、診断メーカーの信憑性が低くなる理由も、同時に明確になるだろう。

 

 

 

 このことは、占いのほうにもメリットがある。占いはその構造上、100%信用されてしまうと、その結果との間に齟齬が生まれる。誰にでも完全にあてはまるなどということはあり得ないからだ。だから、「当たっているような当たっていないような」、「宙ぶらりん」の状態が最上なのである。さすがだ。よくできている。

 

 

 

 

 

 

 

 占いは、我々の身体との結びつきが強いほどその信憑性が増す。未来を予測し、我々に指針を示す精神的な行為は、その実我々の行動にこそ舵を取る、きわめて身体的な行為であるといえるだろう。ということでした。

 

 

 

 

 

 

 

 ほら、あれ以降真面目だったでしょ?私は嘘はつきません。ついたことない。