硬直1000F

3日でやめます

AIが性癖を殺す

 

 結婚してからめっきり自分磨きの頻度が減った。さすがに性欲の減退を感じる。といっても元から性豪というわけではなく、あまつさえ夜遊びなんてして来なかった人間であるため、別段不便は感じていない。ただ、性的コンテンツが激変していく現代、最も多感な時期にある若者はどういった性の変遷を辿るのか。その渦中で経験してみたかったという思いはある。

 

 

 

 

 

 性と暴力は科学を牽引する。昨今は、“AIコスプレイヤー”なる存在が一躍話題となっている。AIによる画像生成の一種なのだが、あまりに完成度が高すぎて「リアルのコスプレイヤーいらないじゃん」などと嘯く輩すら出てくるほどである。確かに顔は美形中の美形、身体的にも現実の女性を凌駕するスタイルで、現実にかなり寄ってはいるがあくまでフィクショナルな部分も見て取れる。架空だからこそ完璧な存在が生み出せるというのは美術の伝統であるが、現代においてそのひとつの骨頂を見ているのは間違いないであろう。

 

 下の画像も、Midjouneyで適当に出力した画像だ。

 

にゅいーんと伸びた小指がキュート

 

 

 さて、私は先ほど「完成度が高い」と述べたわけだが、この表現からはさまざまな意図を読み取ることができるかもしれないし、あるいは一つの意味しか読み取れないかもしれない。ここでいう完成度が高いとは、とりもなおさず”抜ける”ということである。はっきりと明言しておくが、AIコスプレイヤーの画像を見たとき、やれ身体構造がどうだとか、やれ余白との対比がどうだなどという点に注目している男は一人もいない。性欲がカラんだときの男のIQなんてのは土佐犬くらいしかなく、対象を抜けるか抜けないかでしか判断していない。そして私もそのうちの一人である。

 

 「そうはいっても多少はその、可愛いとか、そういう見方もしてるでしょ?」と女性諸氏はお思いかもしれない。そんなことはない。抜けるか抜けないか、それだけだ。「エッチだなあ~っていうのは私も思うよ!」と、これも女史。違う違う。”エッチだ”ではない。”抜ける”だ。”抜ける”は単なるエッチ、エロいとは似て非なるものである。

 

 “エロい”“エッチだ”という語は、感覚的な事実を述べている。それは客観的であり、なおかつ完了形である。つまり、(誰が見ても)”エッチだ”という事実を述べる語だと解釈できる。一方、”シコれる”という語は、分類的には動詞である。それは話者を主語に取り、その身体、可能性への言及を含んでいる。言うなれば、(他人のことは知らないが、俺は)”シコれる”というニュアンスを内包しているわけである。

 

 “抜ける”はあるいは”シコれる”と換言することができる。先に述べたように、これは身体と密接に結びついており、その身体に今後起こる可能性について言及する語である。そういった意味では、”抱きたい””ヤりたい”といった語とも同様の意味になるような気もするだろう。しかし、私はここにも明確な差があると考えている。それは単純で、対象が実存かどうかの問題である。”シコれる”と我々(男)が宣言するとき、その発言のうちには無意識的に、対象の不在に対する承認が含意されているのではないだろうか?

 

 例えば、えなこや伊織もえ、火将ロシエル(いちばんすき)の画像を見たとき、我々(男)が抱く感情はどんなものか。”シコれる”に近い人もいれば、”ヤりたい”に近い諸氏もいると思う。これは対象が実在しているからである。(あくまで無意識的にではあるが)実物が目の前にいるなら是非お相手していただきたい、そう考える男性は”ヤりたい”を用いるだろうし、実物を前にしても見るだけでいい男性は”シコれる”を用いるのではないか。しかし、AIコスプレイヤーの場合はどうだろう?それが実在しない対象であることは、さすがの我々土佐犬であっても分かっている。”抱く””ヤる”が不可能だという前提のもと想定される言語表現こそが”シコれる””抜ける”なのである

 

 


 さて、AIコスプレイヤーが実在しないことは明白であり、それが我々の言語表現にも影響を与えていることはすでに述べた。しかし、これはあくまで”物理的実在”の話である。実は”社会的実在”としてのAIコスプレイヤーは、実在していなくもないのではないか

 

 岩井克人氏は“社会的実在”を「多くの人間が実在していることを認める、信用度の高い概念」のことであると定義した。彼はその代表が言語・法・貨幣であるとし、多くの人間がそれを実存として認めることで実存しているものだと述べる。

 

 AIコスプレイヤーは当然、この時点では実在と呼ぶことはできまい。しかし、AIコスプレイヤーを形作るベースとなっている概念、”性癖”はどうか?これは多くの人が実在を認めており、しかも一定の信頼(自分はこのジャンルで実際に興奮する、という経験)があるではないか。この点で性癖は”社会的実在”である

 

 

 

 ところで、性癖は本来多様なものである。画像1枚に収まるような、視覚的で静画的な性癖に限定したとしても、その嗜好はあまりにも多岐にわたる。筆者の知人にもスタンダードな巨乳好きからBL好き、女の子が泥まみれなのがいいとか、挙句丸呑みされるのがいいなどなど、俄かには信じられない好みが散見される(ちなみに筆者はエロ漫画のコマの中にvくらいの細っいハートマークが散りばめられているのが好きである)。

 

 しかし、これらはもちろん表現上のことであり、また他人により規定されるようなものではない。私もこれら知人の性癖にやーのやーの言ったことはない。権利がない。同時に友人たちにも、私の好きな「左から『イけ。イけ。』右から『イくな。イくな。』と同時に囁かれながら二人の手を恋人握りみたいにした状態で手コキされるシチュ」に文句を言わせるつもりはない。それで興奮するかどうかは人それぞれ、現実世界にそれを持ち込むことがない限り、性癖は完全に個人の自由であるはずだ。

 

 しかし、AIコスプレイヤーはAIによって作られたものである。それはビッグデータから抽出されたものであり、性癖についての協調フィルタリングがはたらいていることを忘れてはならない。誤解を恐れずに言えば、AIコスプレイヤーは世の中の多数派男性の性癖にマッチするデータに基づいて作り上げられていることになる。今後もこの傾向が続いていくのであれば、AIコスプレイヤーが発展すればするほど、最大公約数的な「万人ウケ」の女性像が出力されることになる。逆に、少数派男性のニッチな性癖はフィルタリング段階で見過ごされ、相関の弱いデータとして俎上に乗せられることはなくなってしまう

 

 性癖は社会的実在でありながら、そのコンテンツについては完全に個人の自由意思に委ねられていたはずなのに、そこにAIが介在することにより性癖の内容までもが規定されてしまう。ニッチな性癖を持つ人間たちは、AIコスプレイヤーの恩恵を受けることはできない。AIに、性癖が殺される。そうまで考えてしまうのは、単なる杞憂だろうか。

 

 そんな世の中にしたくない。私がさせない。近い未来、「おねショタのショタが途中から逆転するパターン」だけになってしまった世界で、一人戦っている勇士がいたら、それが私だ

 

 

 

 

 

 ……少々喋り過ぎたかもしれない。あと言ってない性癖は時間停止が解除されたときに快感が一気に来るやつエロトラップダンジョンくらいになってしまった。妻がこの記事を読まないことを祈るのみだ。