硬直1000F

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餅より「画に描いた餅」のほうが格上でしょ普通に

 「画に描いた餅」ということわざに憤りを覚えている。その怒髪は天を衝くどころか、アルファ・ケンタウリまでに存在するすべての惑星を貫いてだんご300兄弟くらいにはできてしまいそうだ。そのくらい怒っている。現代世界の三大巨悪、新型コロナウイルス、M男ものなのに途中で形勢逆転するタイプの作品、そして画に描いた餅だ。いや、だったらおねショタなのに途中でショタが優勢になるやつも入れて四大巨悪とするべきか?あるいはコスプレものなのに途中で衣装を全部脱がせる作品も入れて五大とすべきか?思い切ってM男、おねショタ、コスプレの三大巨悪に絞ってもいいかもしれない。待て、餅が抜けた(この文脈で「抜けた」って書くと違う意味に聞こえるね!)いずれにしてもいつの世も、人の集えば百鬼夜行。白昼白日のみならざるに、悪の滅びることぞ無き。その一翼を担っているのが「画に描いた餅」だ。

 

 

          



 

 

 私事ではあるが、先日結婚をした。私といえばナードでギーク、デブで愚鈍で低所得のキモオタザウルスというイメージを持たれている諸氏も多かったかも知れないが、本当にそうだとしたらこっちにも考えがあるぞ。「デブは本当だろ」じゃねえんだよボケ。腹でタックルしてやろうか

 

 とはいえモテない青年期を送っていたことも事実で、モテる友人たちを見て鬱屈していた時期もある。そのとき決まって私は「結局世の中は顔だ」とうわごとのように吹聴していたのだが、あれは誇張で言っていたわけではない。結局、世の中は顔だ

 

 

 

 「モテる人(とりわけ男性)」というのは、時代によって変遷してきたらしい。そしてそれは、常にその当時の世相を反映するものであった。狩りでその日を暮らしていた原始の時代には、狩りの得意な身体能力の高いオスが、社会が形成され、身分制度が定着した中古~中世には権力を持つ貴族や役人が、モテの一枚目であった。そして、貨幣が生み出されてからのモテは経済力だった。金持ちは、モテる。産業革命によって資本主義が世界の中心となって以降、その傾向はさらに増したと言えよう。

 

 では、現代におけるモテとは何か。身も蓋もないが、それは”顔”である。少し前の時代までは直接的な表現がはばかられていたのに対し、現代の人々は臆面もなく顔を褒める。「顔が天才」「天使」「顔面国宝」などはいずれも、ここ10年程度でとくに強調され始めた表現である。もちろん今までの時代でも顔は間違いなくモテの要件のひとつではあっただろう。しかし、これほど直接的に、忌憚ない表現を用いるようになったのは、注目すべき事象であろう。

 

 このことから逆算すれば、現代の世相が見えてくる。原始には身体、中世では権力、近代ではカネがそれぞれ重要視され、その要件を持つ人物に”モテ”として発露していた。では、顔(容姿)を重視するようになった現代における重要なファクターとは。それは「見かけ」へのこだわり、すなわち”デザイン”である。

 

 意外な事実だが、なんと既に社会の需要は、カネ第一でなくなっている。現代人に求められているのは、とにかく安く済ませられるものではなく、デザインの優れているものだ。ファッションしまむらは、たしかに安い。安いが、現代人に選ばれるスタンダードではない。そこへいくと、GUは日本上陸以降、瞬く間にこの国を席巻した。ユニクロH&Mも追随はしているが、いずれも「シンプルなデザイン」を基調としている点には変わりない(とはいえ、カネが節約できるに越したことはないため、やはり安いことは重要であるわけだが、これらドメスティックブランドは総じて値段も安い)。かつてGUが築いた一夜城は、今や難攻不落の城塞となったが、この大ヒットのベースには現代人の”(金銭的価値だけではない)デザインに対する需要”があると言っていいだろう。

 

 

 

 本題に入ろう。タイトルにもある通り「画に描いた餅」ということわざについてだ。略して画餅(がべい)とも言われるこのことわざ、意味は「実用性がなく、価値のないもの」であるらしい。このことわざ、さすがにそろそろアップデートすべきではなかろうか?

 

 確かに食べられる普通の餅に対して、餅の絵は食べることができない。満足に食べることができない時代なら、そのような実用性を重んじる考え方も頷ける。しかし現代は違う。飽食とまで言われるこの時代、もはや普通の餅には大した価値がない。それに対し(もちろんクオリティに依るとはいえ)、イラストで表現された餅ははっきりと価値を持つものだ。

 

 SNSの普及した現代、視覚情報がユーザーに与えるインプレッションは非常に大きい。ともすれば画像1枚で数千万、数億規模の金が動くこともある。これだけの経済効果をもつ”画”を、「価値がないもの」と位置付けることは、いみじく前時代的である。むしろ当世においては、商業的効果としても単に作品としても、実物の餅より画餅のほうが大いに価値があると考えるべきだ。

 

 

 

 ところで、何を隠そう私はツイッターのプロである。だから、実行しないだけで、何をすればバズるかもだいたいわかっている。具体的に言えば、犬猫の写真、手抜きレシピ、雪に関する北国の掟、計算の順序違いで誤答とされた答案などである。しかし私は残念ながらペットを飼っていないし、雪もほとんど降らないし、小学生の息子もいない。だからバズらないのだ。あんなに面白いツイートばっかりしていても、社会がそれを認めないのだ。全て社会のせいだツイッターのプロが言うのだから間違いない。

 

 そして、近年このバズりラインナップに名を連ねるようになった、新進気鋭のツイートネタがある。それは、「低価格での案件依頼」である。

 

 近年では、ネットを介してのアートワークや音源制作依頼が簡単におこなえるようになった。また、個人での活動であっても投げ銭的に経済的支援を受けられるようになり、EメールはおろかDMやリプライで「ちょっとウチのイメージアート描いてくれませんか」「ゲームのBGM作ってくれませんか」などというやり取りをするのも非常に容易となっている。「そこそこ名が知れている、しかし出版社に抱えられるとまではいかない」個人のアーティストたちにとっては、自分の作品の対価を得やすい時代になったといえる。

 

 しかし、そこには影の側面もある。自立できるほどの人気や技術がない、駆け出しの(あるいはベテランであっても)絵師/作曲家は、えてして「見くびられ」がちである。とはいえクライアント側のほうが、つまり、出世欲を煽って足元を見ていたり、低価格での依頼でなんとかしてきた歪んだ成功体験があったり、あるいはそもそも世間知らずだからなのだろうが、まあほとんどの場合「見くびってくるヤツ」のほうがヤバいヤツである。だから、こうした低価格や無料での案件依頼は叩きやすく、「こんなDM来たんだけど……」というツイートに対して烈火のごとく同情のリプライがつく。

 

 こうした事件における「見くびってくるヤツ(=悪徳クライアント)」の考えは、まさに先述の前時代的な考え方に起因している。それどころか、トレース疑惑事件やイラストの無断転載など、絵画作品を軽んずる姿勢から引き起こされる諸問題はすべて前述のような考え方に端を発しているのではないか。

 

 はっきり言おう。画に描いた餅に価値はある。そして実物の餅よりもずっと高い価値を持っているはずだ。それは、人間の求めるファクターの中心が”デザイン”に置かれるようになったことこそが、何よりの証左である

 

 

 

 では、絵に描いた”何”なら良いのだろうか?

 

 餅の場合、実物より絵のほうが高需要になってしまうことがわかった。ではこのことわざをアップデートするなら?確実に絵より実物のほうが価値が高くなるようなものは何だろうか?

 

 

 

 まず思いつくのは、絵として「映えない」ものだ。害虫だったり排泄物だったりの絵は、欲しがる人がいないため、ほとんど価値を持たないのではないか。しかしこれは、実物にも需要がないという側面があるため、結局絵のほうが高価値になってしまいそうだ。あとうんちの絵は面白いから需要あるし。

 

 では、実物側の価値が著しく高いものはどうであろう?「人間」だったり、「地球」だったりがこれらの代表かもしれない。実物の期待値が高すぎて、絵が追いつけないパターンだ。ただ、これも問題がありそうである。実物の規模が大きすぎて、「画に描いた人間」「画に描いた地球」と言われても、まったくピンと来ない。ここの語感はことわざとして重要である。これもダメそうだ。

 

 つまり、実物として高い価値を持ちつつ、かつ所有物として実感できるものがあれば、「画に描く」対象としては最も適しているわけである。

 

 おそらくこの条件に最もよく符合するのは「スマホ」ではなかろうか?

 

 スマホは1台で無限の使い方ができる。現代の神器にして、持ち運べる魔法だ。スマホの画ももちろん需要があることには変わりないが、さすがに現物のほうが上であろう。だってスマホ(と技術)があれば、そもそも画が描けるわけである。餅だろうがなんだろうが描き放題だ。手のひらサイズに収まる造形もあって、所有物としての実感に事欠かないというのも強い。「画に描いたPC」もいいラインではあるが、所有という感覚にやや欠けることもあるし、あともう若者は家でパソコンなんて使ってないんだってさ。悲しいね。僕らは自分たちがインターネットジジイだってこと自覚して生きていくしかないらしいよ。悲しいね。

 

 

 

 ということで本ブログで提唱する新諺は「画に描いたスマホ」です。いずれ日本語が変化して、餅がスマホに置き換わっていたら褒めてください。50年後くらいかな?楽しみにしておきましょう。

 

 

 

 いやだめだ、50年後は死んでるわ……そういえば私はインターネットジジイだったんだ……