硬直1000F

3日でやめます

「光のお父さん」のようにはいかない

 

 

 考察が大半を占めるこのブログですが、今回は軽めの回想編です。次回書くことがちょっと難しくなりそうなので、その前にワンクッション置こうという読者に親切な流れでやっていこうと思います。すごいでしょ。読者思いのいいブログですね。RTよろしくな。

 

 

 

 

 

 私はオンラインゲームのFF14をプレイしているのだが、昨年このゲームをもとにしたテレビドラマが放映された。「光のお父さん」というフレーズが俄かに話題になったのでプレイしていない方でもご存知かもしれない。テレビドラマに興味はないのだが、プレーヤーとして一応観ておいた。普通に面白かった。お父さんを演じる大杉漣の演技が実に素晴らしい。夜汽車の男のときからあいつはやるやつだと思ってたよ俺は。

 

 さてこのテレビドラマ、FF14が題材ではあるものの、あくまでゲームは媒介であり、疎遠になっていた親子が絆を再確認するというリアリティが作品の基軸を成している。コミュニティの種類が増え、家庭への帰属が社会的絶対事項でなくなった現代、親子が疎遠になることは珍しいことではない。とくに、父親と息子という関係は、えてして会話もなくなりがちだ。

 

 

 

 かくいう私も、なんとなく中学生の時分あたりから、父親との会話が減っていった。それは、思春期の息子を持つ父親には絶対の宿命だったのかもしれない。今宵語られるのは、ある少年のピューバティーと、その父親の葛藤を描いた、親子の絆の物語―――

 

 

 

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 ―――思い返せば、叱られるのはきまって母親からだった。勉強しろと言われたことは一度もないが、他人に迷惑をかけるような行動に対して、母は厳しかった。おかげで不良とは表面上の付き合いで済ませられたし、相手の気持ちもそこそこ思いやれるようにはなったと思うのに、インターネットのせいでめちゃくちゃ性格が悪くなっちゃったんですけど、どうしてくれるわけ?

 

 父親にはほとんど叱られたことがないし、殴られたことも一度しかない。朝寝ぼけたままトイレで小をしたら照準が外れて思いきり便座にかかってしまったのを、後ろに立っていた父親(おそらく大をするため待っていたらしい)に見られたときがその一度だ。なんでだよ。もっと殴るべき場面あっただろ。普通に夏休みの宿題1個もやらずに登校してその日の夜先生から電話かかってきたときとかに殴れよ。と思った。

 

 

 

 そんなわけでうちの父親は、決して威厳があるほうではなく、いつもどこか抜けていて、良く言えば裏表のない、悪く言えば自己中心的な性格だった。

 

 私はだんだん、父親と話をすることに生産性を見いだせなくなり、しだいに疎遠になっていった。彼はビールを飲むとかなりのダル絡みをしてくるため、それも煩わしくて意図的に避けることも多々あった。中学生高校生の私はそんなままで成長を続け、大学に入って親元を離れるようになるまで、ずっとそんな様子であった。

 

 

 

 しかし大学に入り、家族と離れて暮らしてみると、その有り難みも痛感させられた。少し意地になっていたのかもしれない。父とは話す価値がないなんて、凝り固まった考えをしていたのかもしれない。やっぱりもう一度、父とは話してみるべきかもしれない。そう思った。

 

 

 

 少し話は変わるが、私は音楽が好きだ。主に聴くのは洋楽邦楽問わずロックミュージックで、初めて買ったCDはスピッツの「ロビンソン」というシングルだった。そして、スピッツを聴くようになったきっかけは、何を隠そう父親だった。

 

 私は父を避けてはいたが、この点については感謝していた。私の今の音楽的嗜好は、父親が与えてくれたものだ。父は知らないだろうが、私にとって音楽は、父との間のつながりを象徴するものだったのだ。

 

 

 

 大学を卒業し、地元に帰ってくると、家族の様子もいくぶん変わっていた。とくに父は、AKBなどのアイドル全般にハマっており、Youtube等で日夜動画を漁っている様子だった。

 

 私はいくらか引きはしたが、これはチャンスかもしれないと考えた。私はアイドル歌謡には明るくないものの、Perfumeだけは数枚アルバムを持っており、参加したフェスに出演していればステージに足を運ぶ程度には好きなユニットなのだ。(どっちかっていうと中田ヤスタカが好きというべきかもしれないが。)

 

 もしかしたらこのアイドルという切り口から、音楽の話で関係を修復し、一緒に酒を飲めるくらいの関係になれるのかもしれない。そこから私の趣味も広がれば、それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。

 

 私はそんな思いを込め、パソコンの前でももクロの動画を見る父に、意を決して話しかけた。

 

 

 

「へー、父さんアイドル好きだったっけ?」

 

 

 

「ん?おお・・・・・・まあな。数年前からちょっとな。」

 

 

 

「そうなんだ。・・・・・・あのさ、僕も好きなアイドルいるんだよね。Perfumeっていうんだけど。」

 

 

 

 よし。我ながらなかなか自然な会話になった。アイドル好きなら、ここから誰が好きとかそういう話になるはず。そしてあの頃のように、もう一度あの頃のように笑って話せる二人に戻ろう。ねえ、父さん―――

 

 

 

 

 

 

 

 

Perfumeあんなん何がいいのかまったくわからん。

 

 

 

 

 

 ダメだった。修復どころか批判された。私はシンプルに殺意が芽生えた。あのときの私なら、もしかしたら斬空波動拳の1発や2発撃てたかもしれない。

 

 

 

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斬空波動拳。殺意がいっぱいあれば撃てるらしい。

 

 

 

 それ以来私は父親と絶対に音楽の話をしないと誓った。アイドル動画を漁る様も、普通に白い目で見るだけで、もう口出ししないことにした。

 

 

 

 

 

 このあと弟(父に似て自分勝手・ハーフタレントばりに人の領域に土足で踏み込む)が「たかみな(父の推しメン)のどこがいいの?ブスやん。」とか聞いててやめとけと思ったし、父親の「なんていうか、俺と似たところがあるんだよな。」っていう回答にもまじで戦慄しました。みんな、ご両親は大切にな。ばいばい。

 

 

一世一代のあるあるネタ言います

 

 

 渾身のやつ。いきますよ!カメラ準備オッケー?言います!

 

 せーのっ

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 一旦歌わないとアルファベットの順番がわからない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はい、ということでね。本日のテーマはこれです。

 

 アルファベットの順番を、みなさんは正確に覚えているだろうか。英和辞典とかをひいていて、「あれ?SってOより前だっけ後だっけ・・・」みたいになった経験、一度はあるのではないか。

 

 今や英和辞典をひくことも殆どなくなったが、この歳になっても未だに状況は同じだ。そして、そんなとき私は必ず脳内で「あの歌」を歌うことになる。

 

 あるとき気になって「あの歌」を調べてみたら、いくつかの派生形があるらしく、日本でポピュラーなあれもその派生のひとつらしい。本場の歌とは、例えば2小節目なんかに違いがある。日本はH-I-J-K L-M-Nで一旦切れるが、オリジナルはLMNOPまで全部いく。ここの勢いがすごい。エレメノピーだけ急に倍速。でまた止まる。ウィンドウズ更新プログラム

 

 さて、ここで私はひとつの考えに逢着した。この英語版の歌、ちょっと合理性に欠けてません?

 

 

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 ・・・いや、もちろんわかっている。言いたいことはわかる。オリジナルは英語版だ。それは重々承知している。わかったからとりあえずちょっと聞いてほしい。

 

 この英語版の歌の全容がどうなっているか、まずはWikipediaから引用するので見ていただきたい。

 

a-b-c-d-e-f-g,
h-i-j-k-lmnop,
q-r-s, t-u-v,
w--x--y-and-z,
Now I know my ABCs,
next time won't you sing with me ?

 

 先述のように英語版では、2小節目の末尾にLMNOPを突っ込んでいる。まあそれはいい。しかし、そのせいで次の小節には休符が挿入されることになるし、YとZの間に至ってはandとか入ってきちゃってる。何コレ?序盤に積みすぎじゃない?絶対この作曲者と一緒にしゃぶしゃぶ食べ放題行きたくない

 

 

 

 こんな構造になっている原因は、各小節の末尾で韻を踏むことを前提にしているかららしい。確かにそれぞれの末尾は「イー」の音で統一されており、そういう意味では小気味良さを感じることができるのも、まあ一理ある。つまりここでは、アルファベットを均等に並べるという規則性・合理性よりも、「音としての気持ちよさ」が優先されているわけだ。

 

 歌でなくとも、英語で作られた詩なんかは、文末で韻が踏まれていることが多い。そして、これは英語に限ったことではない。漢詩押韻なんかはそれを如実に表した例だ。日本ではこのような韻の文化は最近になってから発達したものであるが、「リズムを生み出す文」として広義に捉えるなら、古くは短歌や俳諧にも言及することができる。現代のミュージックシーンを顧みても、似たフレーズの繰り返しを多用したり、英詞による作詞だったりと、意味より音を重視した作りの楽曲が多い(悪く言っているわけではない)。「音による小気味良さ」を求める風潮は、万国に共通の心理だ

 

 

 

 さて、このような風潮は、いわば「音が意味を凌駕した状態」といえる。語の配置や詞それ自体の意味よりも、口に出したときのリズムが優先された状態。

 

 少し形は変わるが、「口に出して言いたくなる言葉」なんかも同じである。昔習った言葉で、どんな意味なのかは覚えていなくとも、音の響きだけは小気味良くて覚えている、というやつがありはしないだろうか。万緑叢中紅一点とか、マルクス=アウレリウス=アントニヌスとか、禁中並びに武家諸法度とか、バコバコバスツアーとか。

 

 音の響きを感じ取るのは、脳ではなく身体だ。ということは、「意味よりも音の響きが優先された状態」、「意味は覚えていなくても音の響きは覚えている状態」、これらは言い換えれば、「身体が脳を凌駕した状態」とも呼べるだろう。

 

つまり、詩や歌などの芸術作品は、我々の身体(本能)に訴えかけている部分が多いということだ。なぜ小気味良く感じられるかなどというのは、理論で説明できるものではない。本能的に感じ取るものだ。

 

 

 

 

 

 さて、現代における我々の身体は、他者を必要とするものである、と考えられている。我々は自己の身体を認識するために、他者が必要なのである。例えば世界に人間があなた1人だけだったとしたら、たとえ鏡があっても、自己の身体を正確に把握することは不可能だろう。自己の身体が他者と比べてどのように違うのか、という比較(それも複数のサンプルとの比較)を通して、我々は自己の身体を認識し、ひいては自己が何者なのかを捉えようとしていくことになる。

 

 その意味で、我々の身体は自己のみの所有物ではない。あなたがあなたの身体の把握のために他者を必要とするように、他者もあなたを必要としている。つまり、我々の身体は我々の共有物なのだだから、私にはあなたが必要で、あなたには私が必要なのだ。これはもうほんとに本心だ。この記事で言いたかったのはこういうことだ。私の気持ちが伝わっただろうか。男は帰れ。

 

 

 

 世でもてはやされる「あるあるネタ」がウケる根源は、ここにあるのではないかと私は考えている。我々は自己の認識のため、絶えず他者を観察している。だから「上手い観察」に面白さを感じるのだ。「MAC片手にスタバでCoffee」とか、「スマホはもはや俺の臓器」とか、「地元の可愛い女は大体地元のDQNにやられてる」とかでクスリときちゃうのだ。ごめんね。バカにしてないからね。好きなバンドだよキュウソ。

 

 

 

 占いの話題でも言及したが、我々は身体を通じてつながっている。それに普遍性を見いだすあるあるネタは、そりゃウケて当然の、狡猾な笑いなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 なんとなく散らかった話になってしまったが、あるあるネタ自体は面白いので各所にどんどんやってほしいと思う。じゃ、僕は身体が脳を凌駕し始めたので、バコバコバスツアーでも見ようと思います。邪魔しないでください。絶対に。じゃそういうことで。

 

 

1月の"〇〇の日"がしょうもなさすぎるので物申したい

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悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

 

 

 

 藤村操は、世界の真理を「不可解」と述べて自決した。この世は不可解、どこまでも不可解なのだ。トマトの遺伝子数が人間のそれより多いことも、最小の量子物体の動きに規則性がないことも、DMMが未だにVRAVの見放題プランを始めないことも、すべては不可解だから仕方がないのだ。それでも諦められないのが人間なのだ。頼むよDMM。俺が華厳の滝から身を投げる前に。

 

 

 

 

 

 さて、タイトルにも挙げたが、私が不可解に思うことの1つが記念日というヤツだ。よく言う”〇〇の日”というやつ。特に1月。お前だ。私の所有している車は、エンジンをかけた際にカーナビが今日は何の日か教えてくれる。のであるが、この1月の記念日、アンドリューW.K.(ツアー中に右足を骨折し、来日公演は全部車椅子で乗り切った人)ばりにかなり無茶をしている。今回はこの記念日にいちゃもんをつけるだけです。

 

 

 

 今回の画像は全てこの日、何の日(http://www.day.or.jp/)から引用してます。また、今年の分はなかったので去年のやつを使っているため曜日がズレてます。あしからず。

 

 

 

1月2日

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 ここはね。いいんですよ。想像も出来るし、まあ新年でいろいろ始める日だという感じでね。

 

 

 

1月3日

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 ちょっと雲行き怪しいのわかります?1(ひと)3(み)ということだそうです。単純な語呂合わせだけど、まあ一応工夫は見てとれる。ちょっと何をする日なのかという具体性に欠けるけど、なんとなくイメージもつかめる。まあこのくらいは目をつぶりましょう。瞳だけに。は?

 

 問題は次の日からですよ。

 

 

 

1月4日

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 やったなお前。1(い)4(し)という保育園レベルの語呂合わせ。仮にそこに目をつぶるとしても、何をする日なのか要領を得ない。そもそも仕事始めというモンスターイベントのインパクトに負けている。この日は無理だって。今更ビットコイン買うようなもんだって。やめとけ。

 

 

 

1月5日

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 違う違う。まず囲碁を2局もうつな。1局にしとけ。だいたい1(いち)5(ご)と1(い)5(ご)、1日に語呂合わせ2つはキツいって。さすがにクドい。語呂合わせのレベルも最低ランク。まあただ、競合するライバルがいないという点で、目の付け所はいいと思う。2人で切磋琢磨してくれ。

 

 

 

1月6日

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 ぶっ飛ばすぞマジで。しょうもなさすぎる。あとこれが一番実感がつかめない。何する日?もしかして1月6日を除いた364日、我々はモノトーンの世界を見てたりするのか?毎年1月6日、世界は色に包まれ、その日だけはみんな戦争を止めて、ネイビーに染まる夜空の下、金色の炎を囲んで、レッド・アイグリーン・アラスカで乾杯したりしてるんか?素敵じゃない。セカオワの曲みたいで。

 

 

 

1月15日

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 はい地獄の蓋開かれました。いい碁て。お前10日前にもうってただろうが。しかも2局。もういいだろ。グッドゲームだったね!じゃねえんだよ。

 あといちご!逃がさんからな。2回目はダメだろ。バレなきゃいいと思って・・・じゃねえんだよ。スーパーの特売日に臨むおばちゃんと同じ思考をするな。

 あとこれは個人的に、であるが、アダルトの日とレンタルビデオの日が重なってて大丈夫か?という不安がすごい。さらにそこに乗っかってくる青少年育成の日。誰か止めなかったのかこれ。シナジーがすごい。記念日界のトルコライス

 

※ トルコライス

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1月22日

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 だから。2皿も食べるなって。先週トルコライス食ったばっかりだろ。

 日本人の国民食であるカレーとラーメンを同日にぶつける潔さ。レベルが高すぎる。2週間前の試合なんかいちごvs囲碁だったのに。トーナメントの偏りがすごい。この2食と地球が同列に語られているのも感慨深い。まあでも確かに、カレーかラーメンか地球のどれを取ると言われたら、かなり迷うことは間違いない。

 

 

 

 

 

 どうだっただろうか。1月、かなり無茶苦茶やってくる。整合性を求める私のような人間を殺しにきている。しょうもなさの地獄。昨今のBokete。ほんとに同日の記念日同士でバトルロワイヤルさせたい。

 

 

 

 最後に、まさかと思って11月を見てみたらやっぱりあった、衝撃の画像で締めくくりとしたい。

 

 

 

11月15日

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 どんだけ食わせてえんだ。