硬直1000F

3日でやめます

かつて天才だったおじたちへ ~馴れ合いはダサい?~

 

 

 ほとんどのみなさん初めまして。初めてじゃないやつら、いつもありがとな。ハブ石井です。普段はゲームを遊びながら、インターネットの片隅もとい画面端で、箸にも棒にもかからんことを書いたりしています。いや俺だってさ。華々しい画面中央に行きてえよ。でももうテキストサイトは時代遅れなんだってさ。誰か助けてくれよ。俺の顔の真横に刺さってるS版バヨネートをさ、抜いてくれよ。爆発が怖くて動けねえんだわ

 

 

 そんなこんなで最近はGGSTを遊んでおります。もともと発売後に少々やっていたんですが、しばらくしてブランクに入ったのち最近復帰しました。ちょこちょこ天チャレも発生するかな(全く上がれる気配はないけど)といった具合で、まあ楽しくやっております。ランクタワーでお会いしたみなさん、この場を借りて申し上げます。ごめんなさい

 

 

 

立ち回りをこの技一本でなんとかしようとする私の姿

 

 

 

 さて、最近飛ぶ鳥を落とす勢いで話題になっているGGST初心者鯖。面識がない中勝手に評価して恐縮なのですが、管理人のshuntaxさんの記事、めちゃくちゃ面白いし読みやすく、かつ洞察に富んでいて恐ろしささえ感じます。まだ読んでない人がいたら今すぐ読みに行きましょう。自分に自信があるということを忌憚なく言える人の文章は説得力があるし、私はそういう人が好き。この記事だけで3回も読み返しちゃいました。

 

note.com

 

 

 そして感じるのは、こんなコミュニティがあっていいなあ~というシンプルな羨望。私が格ゲー初心者だったら間違いなく参加申請していただろうし、私がもっと上手かったら先生役として貢献したかった。ですが、現実は非情。私は格ゲー歴10年以上のおじだし、格ゲー歴10年以上のおじのくせにディキンソンのJDで乗っかることしかできないカジュアルプレイヤーです。残念ながら私はいずれの条件にも合致しません。

 

 

 それでもできれば、何か貢献できることはないか。そう考えて筆を執った次第であります。絵とか音楽とか作れたらさ。もっといいんだけどね。おじさん図工も音楽も2だったからさ。できることって言ったら文章を書くこととJDで乗っかることくらいなのよ。許してよ。それはもういいじゃん謝ったんだから!だからモテないのよアンタたち

 

 

 

 

 

 初心者鯖、確かに羨ましくはありますが、参加できないことに不平不満は全く感じていません。格闘ゲームにおける初心者は(言い方は悪いですが)"養殖"されるべきです。つまり同ランクの対戦相手と、質問できる環境があるに越したことはない。ひたすら対戦して初狩られて負けて、情報収集と地道な練習を繰り返せる”天然モノ”なんて、幻の存在です。おじ達は自分がそうやって育ってきたため、初心者にその幻想を見てしまう(これが悪意ない初狩りにつながる)わけですが、基本無料の良ゲーが溢れている令和の世にわざわざそんな茨の道を歩む人間はごくわずかです。そこまで打ち込んで生き抜いてきたおじのみなさん、あなた方は間違いなく天才です。それしか娯楽がなかったということはあるかもしれませんが、その情熱は普通ではありません。そして、格ゲー界には間違いなくあなた方が必要です。だからこそ、「今の初心者はいい環境があってうらやましいなあ、まあでも我々おじには不可侵の領域だから、こっちはこっちで楽しくやろう。」くらいでいいんですよ。

 

 

 これくらいのことがとうにわかっている多くのおじの皆様には私から申し上げることはございません。ただ一握りの、教育欲に支配されて持ちうる知識を全部ひけらかそうとしてしまう、そんな茨道育ちのおじ達へ向けて、自戒の念も込めて書いています。え?ぶっきらから立ちHSjcディレイ6JHSで青サイクされてたときだけ空投げが出る?はいはいおじいちゃん、隔離施設に戻りましょうね

 

 

 

 

 

 

 ただ、この初心者鯖の隆盛を見る中で、ひとつ私が疑問に感じたことがありました。それは、なぜ今までこうしたコミュニティがなかったのか?ということです。GGST初心者鯖の実現は情熱的で行動的、その功績は揺るぎない金字塔だと私も思いますが、決して「革新的な企画」ではありません。先人たちも同じようなコミュニティを作ろうとはしたはずで、でも実現できなかった理由があったはずです。それは何なのでしょうか?前置きが長くなりましたが、以下でこの疑問に対する、私なりの推論を申し上げたいと思います。

 

 

 

 

 まず前提としなければならないのは、原理的に格闘ゲーム”と”コミュニティの形成”は、相容れない――とは言わないまでも、相性があまりよくないことです。格闘ゲームをプレイする以上、そこには多かれ少なかれ”殺意”が必要です。「勝ちたい」=「(相手を)負かしたい」の気持ちがなければ、自分も相手も楽しくありません。そしてより順当に勝つためには相手の嫌がることをすべきですから、対戦相手に対してはムカつくのが普通です。このことは、コミュニティを形成する上で重大な欠陥ではないでしょうか。日常的にお互いムカついている組織が、円滑に機能するとは到底思えませんよね。

 

 

 ですが、この前提を超えてコミュニティが形成される条件があります。それは、相手に対する敬意(リスペクト)です。前述のムカつきをリスペクトが上回ったとき、我々はその相手に歩み寄る契機を得ます。「こいつこの技連打してるだけじゃねーか!」という相手に有効な対策が見つからず「いや、これはもうこういう対策なのか……?」となったり、「中下見えない上に暴れ効かないセットプレイ!?うぜー!」も自分で練習してみると「これガーキャンケアしながら全部埋めるの難しいわ……あいつちゃんと練習してたんだな……」となった経験、おじのみなさんなら一度はあるんじゃないでしょうか。

 

 

 そしてもう一つ、このリスペクトを感じるための閾値は、相手との友好度でどんどん下がっていくように思えます。よく対戦する友人に撃たれる割り込みSヴォルカと、ランクタワーで出会った見ず知らずの相手に撃たれる割込みSヴォルカでは、イラつきが違います。前者では「やられた!ナイス!」となるはずのところが、後者では「あああああああああああこいつ擦ってるオアアアアアアアアアアア!!!!クソクソクソクソ!!!!!」くらいにはなるわけです。じゃあそのSヴォルカをガードして後隙を殴ろうとしたら飛んできた2発目のヴォルカに当たっちゃったときは?これも前者なら「やられた!ナイス!」となるはず。いや流石になんねーわ。これは友人相手でも普通にキレていい。

 

 

 要するに、格闘ゲームとコミュニティの形成は簡単には直結しないけど、もともと気心知れた仲があるならムカつかずにリスペクトを持てることも多いため、コミュニティができ上がることもあるよってことです。あるいは友人といわず、「身内の人間だ」くらいの意識でもいい気がします。おじの感覚で言えば、「ホームゲーセンにいる、たま~に話す○○さん」くらいの感じでいいわけです。そしてさらに言えば、このリスペクトを持てる相手同士によるコミュニティは、普通の友人関係よりむしろ強い結束で結ばれることもあるんじゃないかと思います。このへんは自分の経験とかも含めて、実感としての観測値ではありますが。

 

 

 そう考えると、件の初心者鯖はプレイヤー達をまず”見ず知らず”から”身内”にしてくれます。旧来のゲーセンで「身内だ」になるためのハードルはちょっと高い。自分自身がそのゲーセンに居着かないといけなかったり、相手との初動のコミュニケーションを誤らないようにしないといけない(私もこれを失敗して遺恨が残った苦い経験もあります)。また、それなりの向上心や格ゲーの腕も必要です。ところがかの鯖では、悪く言えば無理矢理にでも、「同じコミュニティの人間だ」とラベリングするわけです。しかもそこには、強権の管理人(褒めてる)からの監視も付随します。少しの前科がある人だったり、それを知っている格ゲー村出身の人だったりが、お互いモラルを守って同じコミュニティに属せるのはありえない快挙だと思います。

 

 

 

 

 さて、このような前提の上で、こうしたコミュニティが興らなかった最大の理由は、格ゲー界に蔓延する”恥の文化”に起因するのではないか?と私は思います。

 

 

 格闘ゲームは勝つことが全てです。だから格闘ゲームのコミュニティに属するためには、勝つための努力を、抜かりなくすることが必須でした。むしろ「俺はキャラ対とかの情報収集のために他のプレイヤーに話しかけているんだ」という大義名分があったからこそ、ゲーセンコミュニティが発生したとすら考えられます。だからその中でのヒエラルキーは基本的に腕前準拠で、人間性に難があっても格ゲーが上手ければもてはやされる、なんてことはザラにありました。

 

 

 そんな中「みんなで仲良く格ゲーしよう」「勝てなくてもキャラが動いているの見てるだけで楽しい」なんていう人間を、格ゲー村は受け入れてくれません。この村は村八分判定が異様に厳しく、とにかく出る杭は打たれます。大した実力もないのにただ馴れ合うというのは、格ゲー界では”恥”とみなされ、”ダサい”と思われてしまっていたのです。

 

 

 ただ、本当はそういう楽しみ方だってあっていいはずなんです。もちろん、上を目指して練習と対戦に打ち込むことはカッコいいです。それは揺るぎない事実。でも、積極的にコミュニティに属したり、キャラ愛を語ったり、自己紹介カードを作ったりすることは、決してダサいことではありません。「格ゲー初めて2週間の初心者だけど大会主催します!」とか、「気になってる異性が格ゲー始めたから自分も!」とかさ。いいじゃない。私は格闘ゲーマーのこと好きですが、ここの価値基準はもっと寛容になってもいいところだと思います

 

 

 むしろ、人間としてのモラルみたいなところが重視されるようになってきたのはすごく好ましいことだと思ってます。「いやー格闘ゲーマーはスラム街出身だからさwww」などとよく聞きますが、それはハチャメチャなキャラとシステムのゲームがしたい!っていう意味であって、人間性に欠けることの免罪符ではないんです。お前の遅刻をスラムのせいにするんじゃねえ

 

 

 初心者鯖のすごいところは、(おじ達が勝手に感じていた)この「強くもないのに仲良しこよしはダサい」みたいな風潮を(少なくともコミュニティ内部においては)取り払ったところだと思います。”初心者が主役”とか”教え過ぎない”とかは、明白っぽい謳い文句に見えて、実は今までのコミュニティが徹底できていなかった盲点なんじゃないでしょうか。かの鯖がこんなに盛り上がっている理由はここにあるんじゃないかなあと、外様ながら考えております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この文章をアップするかどうか、ちょっと迷いました。なぜならこの文章自体、格ゲー村の基準で言えば”ダサい”からです。「話題の初心者鯖ブームに乗っかってるビュー数稼ぎ」であることに異論はありません。私はそれを否定しません。ですが、私が素晴らしいと思ったことは素晴らしいと文章に残しておきたい。それはダサいことではないという世界になってほしいという、そんな願いも込めて公開致します。お読みいただきありがとうございました。そしてランクタワー9~10階のみなさん、本日も対戦よろしくお願いします。

 

 

 

 

今日も俺はこれ一本でいく

 

 

餅より「画に描いた餅」のほうが格上でしょ普通に

 「画に描いた餅」ということわざに憤りを覚えている。その怒髪は天を衝くどころか、アルファ・ケンタウリまでに存在するすべての惑星を貫いてだんご300兄弟くらいにはできてしまいそうだ。そのくらい怒っている。現代世界の三大巨悪、新型コロナウイルス、M男ものなのに途中で形勢逆転するタイプの作品、そして画に描いた餅だ。いや、だったらおねショタなのに途中でショタが優勢になるやつも入れて四大巨悪とするべきか?あるいはコスプレものなのに途中で衣装を全部脱がせる作品も入れて五大とすべきか?思い切ってM男、おねショタ、コスプレの三大巨悪に絞ってもいいかもしれない。待て、餅が抜けた(この文脈で「抜けた」って書くと違う意味に聞こえるね!)いずれにしてもいつの世も、人の集えば百鬼夜行。白昼白日のみならざるに、悪の滅びることぞ無き。その一翼を担っているのが「画に描いた餅」だ。

 

 

          



 

 

 私事ではあるが、先日結婚をした。私といえばナードでギーク、デブで愚鈍で低所得のキモオタザウルスというイメージを持たれている諸氏も多かったかも知れないが、本当にそうだとしたらこっちにも考えがあるぞ。「デブは本当だろ」じゃねえんだよボケ。腹でタックルしてやろうか

 

 とはいえモテない青年期を送っていたことも事実で、モテる友人たちを見て鬱屈していた時期もある。そのとき決まって私は「結局世の中は顔だ」とうわごとのように吹聴していたのだが、あれは誇張で言っていたわけではない。結局、世の中は顔だ

 

 

 

 「モテる人(とりわけ男性)」というのは、時代によって変遷してきたらしい。そしてそれは、常にその当時の世相を反映するものであった。狩りでその日を暮らしていた原始の時代には、狩りの得意な身体能力の高いオスが、社会が形成され、身分制度が定着した中古~中世には権力を持つ貴族や役人が、モテの一枚目であった。そして、貨幣が生み出されてからのモテは経済力だった。金持ちは、モテる。産業革命によって資本主義が世界の中心となって以降、その傾向はさらに増したと言えよう。

 

 では、現代におけるモテとは何か。身も蓋もないが、それは”顔”である。少し前の時代までは直接的な表現がはばかられていたのに対し、現代の人々は臆面もなく顔を褒める。「顔が天才」「天使」「顔面国宝」などはいずれも、ここ10年程度でとくに強調され始めた表現である。もちろん今までの時代でも顔は間違いなくモテの要件のひとつではあっただろう。しかし、これほど直接的に、忌憚ない表現を用いるようになったのは、注目すべき事象であろう。

 

 このことから逆算すれば、現代の世相が見えてくる。原始には身体、中世では権力、近代ではカネがそれぞれ重要視され、その要件を持つ人物に”モテ”として発露していた。では、顔(容姿)を重視するようになった現代における重要なファクターとは。それは「見かけ」へのこだわり、すなわち”デザイン”である。

 

 意外な事実だが、なんと既に社会の需要は、カネ第一でなくなっている。現代人に求められているのは、とにかく安く済ませられるものではなく、デザインの優れているものだ。ファッションしまむらは、たしかに安い。安いが、現代人に選ばれるスタンダードではない。そこへいくと、GUは日本上陸以降、瞬く間にこの国を席巻した。ユニクロH&Mも追随はしているが、いずれも「シンプルなデザイン」を基調としている点には変わりない(とはいえ、カネが節約できるに越したことはないため、やはり安いことは重要であるわけだが、これらドメスティックブランドは総じて値段も安い)。かつてGUが築いた一夜城は、今や難攻不落の城塞となったが、この大ヒットのベースには現代人の”(金銭的価値だけではない)デザインに対する需要”があると言っていいだろう。

 

 

 

 本題に入ろう。タイトルにもある通り「画に描いた餅」ということわざについてだ。略して画餅(がべい)とも言われるこのことわざ、意味は「実用性がなく、価値のないもの」であるらしい。このことわざ、さすがにそろそろアップデートすべきではなかろうか?

 

 確かに食べられる普通の餅に対して、餅の絵は食べることができない。満足に食べることができない時代なら、そのような実用性を重んじる考え方も頷ける。しかし現代は違う。飽食とまで言われるこの時代、もはや普通の餅には大した価値がない。それに対し(もちろんクオリティに依るとはいえ)、イラストで表現された餅ははっきりと価値を持つものだ。

 

 SNSの普及した現代、視覚情報がユーザーに与えるインプレッションは非常に大きい。ともすれば画像1枚で数千万、数億規模の金が動くこともある。これだけの経済効果をもつ”画”を、「価値がないもの」と位置付けることは、いみじく前時代的である。むしろ当世においては、商業的効果としても単に作品としても、実物の餅より画餅のほうが大いに価値があると考えるべきだ。

 

 

 

 ところで、何を隠そう私はツイッターのプロである。だから、実行しないだけで、何をすればバズるかもだいたいわかっている。具体的に言えば、犬猫の写真、手抜きレシピ、雪に関する北国の掟、計算の順序違いで誤答とされた答案などである。しかし私は残念ながらペットを飼っていないし、雪もほとんど降らないし、小学生の息子もいない。だからバズらないのだ。あんなに面白いツイートばっかりしていても、社会がそれを認めないのだ。全て社会のせいだツイッターのプロが言うのだから間違いない。

 

 そして、近年このバズりラインナップに名を連ねるようになった、新進気鋭のツイートネタがある。それは、「低価格での案件依頼」である。

 

 近年では、ネットを介してのアートワークや音源制作依頼が簡単におこなえるようになった。また、個人での活動であっても投げ銭的に経済的支援を受けられるようになり、EメールはおろかDMやリプライで「ちょっとウチのイメージアート描いてくれませんか」「ゲームのBGM作ってくれませんか」などというやり取りをするのも非常に容易となっている。「そこそこ名が知れている、しかし出版社に抱えられるとまではいかない」個人のアーティストたちにとっては、自分の作品の対価を得やすい時代になったといえる。

 

 しかし、そこには影の側面もある。自立できるほどの人気や技術がない、駆け出しの(あるいはベテランであっても)絵師/作曲家は、えてして「見くびられ」がちである。とはいえクライアント側のほうが、つまり、出世欲を煽って足元を見ていたり、低価格での依頼でなんとかしてきた歪んだ成功体験があったり、あるいはそもそも世間知らずだからなのだろうが、まあほとんどの場合「見くびってくるヤツ」のほうがヤバいヤツである。だから、こうした低価格や無料での案件依頼は叩きやすく、「こんなDM来たんだけど……」というツイートに対して烈火のごとく同情のリプライがつく。

 

 こうした事件における「見くびってくるヤツ(=悪徳クライアント)」の考えは、まさに先述の前時代的な考え方に起因している。それどころか、トレース疑惑事件やイラストの無断転載など、絵画作品を軽んずる姿勢から引き起こされる諸問題はすべて前述のような考え方に端を発しているのではないか。

 

 はっきり言おう。画に描いた餅に価値はある。そして実物の餅よりもずっと高い価値を持っているはずだ。それは、人間の求めるファクターの中心が”デザイン”に置かれるようになったことこそが、何よりの証左である

 

 

 

 では、絵に描いた”何”なら良いのだろうか?

 

 餅の場合、実物より絵のほうが高需要になってしまうことがわかった。ではこのことわざをアップデートするなら?確実に絵より実物のほうが価値が高くなるようなものは何だろうか?

 

 

 

 まず思いつくのは、絵として「映えない」ものだ。害虫だったり排泄物だったりの絵は、欲しがる人がいないため、ほとんど価値を持たないのではないか。しかしこれは、実物にも需要がないという側面があるため、結局絵のほうが高価値になってしまいそうだ。あとうんちの絵は面白いから需要あるし。

 

 では、実物側の価値が著しく高いものはどうであろう?「人間」だったり、「地球」だったりがこれらの代表かもしれない。実物の期待値が高すぎて、絵が追いつけないパターンだ。ただ、これも問題がありそうである。実物の規模が大きすぎて、「画に描いた人間」「画に描いた地球」と言われても、まったくピンと来ない。ここの語感はことわざとして重要である。これもダメそうだ。

 

 つまり、実物として高い価値を持ちつつ、かつ所有物として実感できるものがあれば、「画に描く」対象としては最も適しているわけである。

 

 おそらくこの条件に最もよく符合するのは「スマホ」ではなかろうか?

 

 スマホは1台で無限の使い方ができる。現代の神器にして、持ち運べる魔法だ。スマホの画ももちろん需要があることには変わりないが、さすがに現物のほうが上であろう。だってスマホ(と技術)があれば、そもそも画が描けるわけである。餅だろうがなんだろうが描き放題だ。手のひらサイズに収まる造形もあって、所有物としての実感に事欠かないというのも強い。「画に描いたPC」もいいラインではあるが、所有という感覚にやや欠けることもあるし、あともう若者は家でパソコンなんて使ってないんだってさ。悲しいね。僕らは自分たちがインターネットジジイだってこと自覚して生きていくしかないらしいよ。悲しいね。

 

 

 

 ということで本ブログで提唱する新諺は「画に描いたスマホ」です。いずれ日本語が変化して、餅がスマホに置き換わっていたら褒めてください。50年後くらいかな?楽しみにしておきましょう。

 

 

 

 いやだめだ、50年後は死んでるわ……そういえば私はインターネットジジイだったんだ……

 

 

煩雑化するレジでの会話は、まるで映画である。

 

 

 日頃からコンビニを利用する機会が多い。帰宅が夜半ということもあり、その時間に開いている店となればほぼ一択と言えるほど利便性がいい。当たり前のように24時間営業をしているが、その実これはとんでもないことでもある。ストレスにまみれた現代の魔都に燦然と輝く不夜城。我々はその存在なくしては生活がままならないほどである。

 

 しかし、最近のコンビニには問題がひとつある。レジ袋の有料化や支払い方法の多様化などにより、レジにおけるコミュニケーションが煩雑化していることだ。これは我々コミュ障の陰キャ自分でコミュ障の陰キャって言うやつ、ただ単にコミュニケーションを面倒がっているだけ説)にとって、かなり手痛いナーフである。コンビニの利点のひとつがその手軽さであり、コミュニケーションを行わなくていい、というのもその手軽さのいち要素だったわけで、これが崩れると一蓮托生、コンビニの持つアドバンテージが一気に瓦解しかねない危うさがあるのではないか。

 

 

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 読者の方も、直近のコンビニでのやりとりを思い出してほしい。それはまるで、映画のワンシーンにできるほど煩雑で、冗長である。たとえば今、私が今日巻き込まれたレジ前の会話を思い出せうる限りでここに記述したい。私の脳内で煩雑さのバイアスがかかっていることもあり、実際のやり取りにやや脚色がなされている可能性もあるが、それがリアルであるともいえる。これこそがいま起こっているコンビニの危機だ。

 

 

 

 

 

 

店員(演:エディ・マーフィー「……じゃ、これが商品と、こっちがレシートだ。あんた、そろそろタバコは控えたほうがいいんじゃないか?これじゃウチだけじゃなく隣のドラッグストアでも常連になっちまうぜ。じゃあな、よい一日を。

 次に並んでるお客さん!……おっと、あんたじゃねえ、そっちの列のお客さんのが先に並んでた。いいか、ゆっくり下がって、1歩……2歩……そうだ、そこで待っててくれ。心配すんな、あんたが朝食前のコンドルみてえな目で狙ってるラスト1個のファミチキだが、ちょうど今揚げてるとこだ。もう少し待ってくれれば、新鮮なジャッカルがちょうどあんたの前を通りかかることになるぜ。……よーし、わかってくれたならそれでいい。じゃ、そっちのお客さん!今からあんたの番だ。その手に持ってるカゴをここに置きな。」

 

私(演:ジェイソン・ステイサム「……ずいぶん賑わってるな。ブロードウェイに来ちまったのかと思ったよ。」

 

店員「ハハーッ、そりゃいいな。キャストは俺一人、演目はレジカウンター・パフォーマンスだ。おっと、チップは胸ポケットに直接入れてくれよ、そっちの募金箱に入れられても俺にはビタ一文入らねえからな。」

 

私「いいや結構。あいにくミュージカルには興味がなくてね。」

 

店員「おいおい、まさかオペラ座の怪人を見たことないなんて言わないよな?なんなら今ここで俺がやってやろうか?大丈夫、心配するな。セリフは一言一句間違わねえよ、もう200回は見たからな。舞台は19世紀のパリ。オペラ座の地下に住むある男が……」

 

私「なんでもいいから早くレジを打ってくれ。火だるまになってシャンデリアの下敷きになりたくなければな。」

 

店員「なんだよ、見たことあるんじゃねえか。ハイハイ、そんじゃカゴをちょっくら拝借。先に聞いとくが、温めるもんはあるか?うちのレンジはすげえぜ。1500W、業務用の特注だ。アンタがカゴに入れてるこのチキンステーキを、サンフランシスコのビーチに停まってるキャデラックのボンネットくらい熱々にできるんだぜ?」

 

私「ああ、そいつはゴキゲンなこったな。また今度たのむよ。」

 

店員「いいのか?こんな機会めったにないぜ?業務用レンジなんてめったにお目にかかれないぞ?200mおきに建ってる、他のコンビニに行かない限りな。」

 

私「わかったから早く仕事をしろ。後ろの客が心待ちにしてるファミチキが揚がっちまうぞ。」

 

店員「つれねえ客だなまったく。んじゃ1個2個……あー、この弁当はやめといたほうがいい。やたら底を上げててたまったもんじゃない。おっ、このスナックはウマいぜ。あんたいいところに目をつけたな。おいそういやあんた、レジ袋は要るか?」

 

私「ああ、頼む。」

 

店員「なんだって?おいおい、今どきエコバッグも持ってねえのかよ!SDGsを知らねえのか?おいあんた、名前はなんていうんだ?あとで国連とグリーンピースからこっぴどく叱ってもらわねえとな。」

 

私「好きにしてくれ。今さら誰に叱られようと、うちのカミさんより恐いとは到底思えないだろうからな。」

 

店員「ハハッ、そいつは気の毒だな。そんじゃ次はエコバッグを持ってきてくれよ。さもないと、あんたの奥さんが国連に加盟することになるぜ。持続可能な地球を、あんたの手から守るためにな。」

 

私「ああ、そいつは最高だな。ところで俺はいつまでレジを待てばいいんだ?今までの客は、お前さんのレジ作業の間にロード・オブ・ザ・リングでも観てたのか?」

 

店員「おっ、そいつは名案だな!あー、だが、著作権が面倒だな。じゃあ全部の役を俺がやってそいつを流すのはどうだ?実はミュージカルより映画のほうが好きなんだ。スメアゴル・イズ・フリー!って具合でな。あ、そうだそうだ。」

 

私「次は何だ?」

 

店員「スプーンだ。レジ袋は譲れても、こいつは譲れねえ。なんてったってタダだからな。タダだからって10本もセットにするわけにはいかねえから、こいつが何本いるかはあんたの良心にかかってるぜ。客にタダでスプーンを配りまくってこの店がつぶれちまうかどうかも全部あんた次第ってわけだ。さあ何本だ?何本いるんだ?」

 

私「あんまり脅すなよ。大丈夫だ。スプーンはいらない。」

 

店員「ワァ~オ、後ろに並んでるやつら聞いたか?あんたみたいなお客ばっかりなら、この店もネバーランド(マイケルジャクソンの家)みたいなデカさになるのにな。よし、そんじゃ支払いはどうする?現金、カード、プリペイド……なんでも揃ってるぜ。」

 

私「電子マネーでたのむよ。」

 

店員「おいおい旦那、電子マネーだけじゃわからねえよ。『好きな生き物は何?』って聞かれて、『動物』って答えるヤツがいるか?もっと詳しく言ってくれなきゃ。たとえば、俺の好きな生き物はバッファローだ。勇猛でパワーがある、まるで俺みたいだろ?」

 

私「ああ、まったくだな。ちなみに俺の好きな動物はペンギンだ。ここまで言えば解るだろ?」

 

店員「あーはいはい。Suicaだな。そんじゃ、ここにカードを近づけて読み込ませてくれ。あんたのハニーとキスするときみたいに優しくな。……よしOKだ。」

 

私「どうも。それじゃあな。」

 

店員「おっと!どこへ行くってんだ。お客さん、あんた大事なことを忘れてるぜ。」

 

私「なんだ?早く言え。それとも、帰りが遅くなった言い訳を俺の代わりにカミさんにしてくれるってのか?」

 

店員「ハー!ブルルルルル……(唇を震わせながら、両手の親指を下に向けるポーズ) 大事なことってなあコイツだ。レシートだよ。」

 

私「いや、いらないな。あいにくポケットに入りきらなくてね。」

 

店員「おいおいそりゃないぜ。おれの立場をわかってねえのか?おれはこの店の店長なんだぜ?しかも雇われのな。安い給料で、昼勤も夜勤もやって、バイトのシフトまで調整してんだ。このエリアのボスには頭が上がらねえ。受け取ってくれねえと頭の固え支配人どもに大目玉くらっちまうんだ。なあほら、頼むよ。」

 

私「わかった、わかったよ。ほら、これで満足か?(レシートをぐしゃぐしゃに丸めて財布に投げ込みながら)」

 

店員「ああ、そうだ。それでいい。そんじゃあな、いい日になるよう祈ってるぜ。あ、そのレシート、今やってるイベントの応募券がついてるから送ってみるといいぜ。あんたが1000人に1人の選ばれし男かどうか試せるからな。

 よーし次のお客さん、そうあんただ。待たせちまってすまなかったな。……え?ファミチキ?あ~、え~っとあれならさっき揚げてて……(揚げすぎて焦げたファミチキを見ながら)まあその……ウェルダンってところだな。他じゃ食べられないぜ?」

 

 

 

 

 これである。こんなことを毎回やっていたら身が持たないし、その他の日常会話までウィットに富みまくってしまう。パソコンがうまく動いた程度で「よ~しいい子だ」なんてことを言う日常生活はゴメンである。

 

 

 

 コンビニ各社はそろそろ、レジでのコミュニケーションを見直してほしいし、エディマーフィーみたいな店員を再教育してほしい。あと私はジェイソンステイサムみたいなイケおじじゃないし、叱ってくれる奥さんもいない。あ~あ、あぁあぁ最高だよ!!(両手を上に投げ出しながら)

 

 

 

 脚本家ってたいへんな仕事なんですね。それではまた。