硬直1000F

3日でやめます

白米と素人ものAVに見る、脱構築論

 

 

 2ヶ月以上ぶりの記事になってしまった。理由は明白で、同時進行で下書きの原稿をため込んでいた職場のフォルダが、サーバー移行に伴って全部消えたからだ。世の不条理を感じている。移行するならもっときちんとケアしておいてほしかった。1ヶ月前の告知なんて忘れるに決まってるだろ!もっと直近で告知して、なんならバックアップしといてくれよ!仕事用のデータだったらどうするんだ!とお解りのとおり完全に自業自得で下書き類が灰燼と帰してしまったため、ゼロから書き直しているといったところだ。7割くらい書いてたものもあったのだが、中身全部忘れたので別の話題を書くことにする。

 

 

 

 

 

 私は、白米がそれほど好きではない。好きではないと書くと語弊があるのだが、少なくとも一般的な日本人の平均よりは程度が劣るだろう、と考えている。べつに白米なしのおかずだけの食事でも満足するし、コンビニでおにぎりかパンを買うことになったら迷わずパンを選ぶ。インドカレーの店なんて確実にナンだ。っていうかインドカレー屋でライスにする人類とはほんとうに相容れないと思う。我々など、カレーよりナンを食べに行っている節まであるというのに。ナンなんだあいつら(観客拍手)

 

 もちろん白米が絶対に必要!という瞬間はある。家系ラーメンの最後に少しだけ食べるライスは至高だし、ホルモンを食べるなら白米はほしい。我々は、常に白米を求めていないというわけではない。ただ、往々にして、それを優先的に選択するという行為をしないのみである。

 

 今回は便宜上、我々のように、「白米を選択することが優先的ではない人間」を”白米嫌い”と呼ぶことにする。いや、もちろん厳密には白米が嫌いなわけではない。ただ明らかに”白米好き”ではないということと、論じる上での簡潔さとを併存させた表現として妥当であるという理由で用いるのみである。そんな鬼の首とったようにツッコまないでほしい。私はべつにケンカがしたいわけではないのだ。そういうとこやぞ君ら。

 

 

 

 我々”白米嫌い”のひとつの特徴として、「コロッケはおかずになるか」という議論がある。断言しよう、コロッケで白米を食べることは不可能だ。その不可能さといったら、今日は栄川乃亜の単体もので抜こう!と思っている日に、AIKAの企画もので抜くようなものだ。いや、それはできるか。じゃあ、その逆。逆くらい不可能。いや、それもできるか。できます。以上です。

 

 このような「白米のおかずにならない(にもかかわらず、なるという認識の人々が一定数いる)食べ物」の最たるものはコロッケだろう。しかし、同種の食べ物は他にも散見される。刺身であったり、焼売であったり。あるいは人によっては、お好み焼き、おでん、卵焼き、冷や奴なんかも含まれるのかもしれない。

 

 たとえば刺身なんかは、それでご飯がまったく一口も食べられないというわけではない。寿司は好きだし、海鮮丼は普通に食べられる。しかし、刺身定食となると違う。

 

 つまり我々”白米嫌い”にとって、「おかずならば必ず白米が食べられる」という命題は成り立たないのだ。

 

 

 

 しかし世の中には、このような我々の主張に対し、「いやいや、コロッケでご飯いけるっしょ~(笑)」「え、お好み焼きでご飯食えへんの?ワイら関西人には理解できひんわ(笑)」などと声高に嘯く輩が一定数存在する。いや知らん。知らんのだが、知らん知らん・・・と突っぱねるだけでは芸がないため、今回はこのような意見への反論を企てたい。

 

 

 

 

 

 さて、皆さんは”脱構築”という言葉をご存知だろうか?

 

 脱構築とは、哲学者のジャック・デリダが提唱した手法で、二項対立したようなものを分解、要素を抽出して、お互いを対立させずに考えようとする潮流のことだ。

 

 二項対立しているように見えるものの中には、お互いにお互いの要素が含まれている。それを分解して、メタ的に考える脱構築は、現代哲学の中でも、かなり先進のものである。

 

 

 

 たとえば、二項対立の例として「女優ものAVと素人ものAV」を挙げてみよう。(ここで月並みなブログなら「男と女」とか「昼と夜」とかそういう一般的なサンプルを用いるのだろうが、そういう感じのやつを読みたい人は栄川乃亜のくだりで既にタブを閉じていると思われるため、あくまでこの例えでいくことにする。ついてきてくれよ、みんな!)

 

 女優ものAVと素人ものAVは相容れないもの、すなわち二項対立だ。なぜなら女優ものAVには素人は絶対出ていないし、素人ものAVに女優は絶対出ていないからだ。絶対出ていないのだ。絶対出ていないってことにしといてください。僕の夢を壊さないで・・・

 

 

 

 さて、この2ジャンル、それぞれの良さは何だろう。女優ものAVの良さは、きっちりとした構成とカメラワーク、演者のパフォーマンスに裏打ちされた、エンターテイメント性だといえるだろう。一方素人ものAVには、そこまでのアトラクティヴさはないものの、日常の中に潜む非日常を見つけられる生々しさがある。

 

 

 

 しかし、ここで考えてみてほしい。素人ものAVの中に、エンターテイメント性のある作品だってあるとはいえないだろうか?(マスクしてライブチャット配信するやつとか。)また、女優ものAVの中だって、生々しさのある作品はある。女優のプライベートを隠し撮りする体のやつ(あくまで体だろうが)なんかは、逆にリアルさがあっていい。

 

 つまりこの2ジャンルはそれぞれ、対立しているように見えて、お互いがお互いの要素を含んでいるものだといえる。このように、一見して二項対立に見えるような事項は、相互に他者の要素を含んでおり、完全に分離して考えることはできない、というのが脱構築の考え方だ。

 

 

 

 

 

 先に述べた白米好きvs白米嫌いの構図に、この考え方を適用してみたい。

 

 白米好きは、常に白米を欲しているわけではない。おかずの種類によっては白米を選択しないケースだって存在するのだ。コロッケでご飯が食べられる人はおでんで食べられないかもしれないし、お好み焼きでご飯を食べる人は刺身で食べられないかもしれない。ご飯にマーガリンはつけないし、ご飯に錦糸卵ときゅうりの細切りを乗せてマヨネーズと別添のタレをかけたりはしないはずだ。つまり白米好きは、局所的に白米嫌いになるのだ。

 

 つまり白米好きは、部分的に白米嫌いの要素を持っており、完全無欠ではない。となれば先述のような白米好きの意見も、辻褄の合わない部分は出てくるはずだ。(それでも「いやいや、自分はなんでもご飯と一緒に食べれますよ(笑)ご飯に合わないものないっしょ(笑)白米サイコー(笑)」とか言ってる奴いたらもうほっときましょう。一生パンが食えない呪いにかけてやりますよ。米にアヒージョぶっかけて食ってろ。

 

 

 

 思えば、世間でしばしば槍玉にあがる”嫌われ者”たちも、一方では他者の要素を含んでおり(自称サバサバ女子はそれを自称している時点でぶりっ子の要素を含んでいる、迷惑型ラブライバー陰キャラの中に陽キャラの要素を含んでいるなど)、それを脱構築的に捉えることは、自分がそのような者になってしまうという事態を防いでくれるかもしれない。

 

 脱構築の最終的な目的とは、固定化された観念を打破し、ものごとを柔軟に考えようとすることだ。近年の哲学は、このような大きな潮流に身をゆだねている。現代に生きる我々には、ひとつの考えに固執することなく、自己と他者を分析的に捉え、柔軟に考えることが求められている。相手の意見を聞き、「相容れない」と突き放すのではなく、そこにコミュニケーションの余地を残せるような、そんな生き方をしていきたいものだ。

 

 

 

 

 

でもコロッケでご飯は無理。